【聖書の基本】しかし、わたしは言っておく

2019年9月22日

今回は、敵を愛するという、およそ不可能なレベルの命令が、私たちに重くのしかかってきました。マタイによる福音書の山上の説教では、私たちに難しい教えが突きつけられます。
 
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 
ここで内容について一度判断を止めて、「あなたがたも聞いているとおり……」「しかし、わたしは言っておく」という形式に注目してみることにします。ニュアンスは、「君たちはかつてこう聞いていた」「それに対して、誰あろうこの私が真理を言うのだ、君たちに」というような感じではないかと思います。この山上の説教では、すでに何度かこの言い回しが並んでいます。
 
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
 
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 
また、始まりが少しだけ違いますが、次のような場面もありました。
 
5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 
マタイは律法を決して軽くは見ません。一つひとつの律法の真髄が実現されていくことを熱心に訴えようとします。そこで、これまでの律法の文言そのものを無闇に無視するようなことをせず、その律法の新しい意味を説き、字面にがんじがらめにされていた人々をむしろ解放しようとしているように思われます。どう考えても、イエスが新たに提示した命令のほうが、困難なのです。無理難題をもちかけているように見えて仕方がありません。それでも、そのほうが、人が人を虐げる構造をもたらすことがなくなることを、イエスは知っているかのようです。
 
かつての律法は、裕福な生活をしている者や、知識のある者にとっては、まだ遵守可能だと、自分では思われました。そうすると、貧しい者や深い知識を学ぶことのできない者は、そこから脱落することになります。自然、エリートたちがそうした者を見下して優位に立つわけです。この構造を、イエスは破壊します。人は皆同じように罪の中にある、いやむしろ、自分は罪がないと自認し、他者を虐げているような者のほうが罪が深い、そんな角度から人間の位置を自覚させようとしているように思われます。
 
これまではこう言われていた。だがこのイエス自身が、と主語を強調する形で、告げることを心して聞くがよい、とぶつけてきます。このような言い方は、マタイに顕著であり、ほかには「わたしは言っておく」というフレーズだけでしかありませんが、ルカで2箇所(11:9,16:9)、ヨハネで1箇所(4:35)を数えるに過ぎません。
 
マタイもこの5章で立て続けにこのフレーズを用いて、かつての律法との対比をなした後は、イエスの口からなかなかこのような言い方をさせませんが、最後のほうであと一つだけ「わたしは言っておく」が登場します。なかなか決定的な証拠が出て来ない中、おまえはメシアなのかと叫ぶ大祭司に向かって、最高法院の席で、イエスは決定的なことを告げました。
 
26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
 
これにより神を冒涜したという証拠ができたと大祭司を興奮させ、人々も死刑だ死刑だと叫ぶようになりました。
 
もう一度本日の箇所に注目しましょう。
 
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 
「隣人を愛し、敵を憎め」は私たちの手にある聖書には見られない言葉ですが、死海写本の中にこれに近い思想が見られると聞いています。それは、敵というよりも、自分たちの共同体に属さない人々のことを言っているのであって、戦う敵ではないようです。ユダヤ教文化の内にありその掟を守っている者同士は愛し合うが、律法を守れない人々を愛する仲間の外に置いていたエリートたちを、イエスはここであっさりと一蹴したとも言えるでしょう。しかし、それは違う、と。
 
ここで、自分を迫害する相手を愛するという、およそ人間には不可能なような愛が命じられていますが、もちろんこれは、無理やり愛せとか、努力するのだとか言っているのではないでしょう。メッセージにあったように、ここでイエスがするように命じたのは「祈る」ことでした。祈ること、そこに愛するということの本質があると見てよいのではないか、ということです。そうすると、「敵」とそれまで見なしていた相手が、「隣人」に変わるかもしれません。「隣人とは誰か」と尋ねた、あのサマリヤ人の物語にもつながるような考え方ですが、誰が隣人であるかについて思い巡られた後に、隣人ならぱ愛することができるという話を思い出させます。マタイは黄金律の二つ目として、「隣人を自分のように愛しなさい」(22:39)を持ち出していました。パウロは「人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ローマ13:8)と宣言し、「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5:14)という見解も明らかにしています。
 
こうした聖書の核心にあるとされる教えを告げる場面で、ギリシア語は悉く「アガペー」の愛にまつわる語を使います。よく教科書でも、アガペーは神からの愛、エロスは人からの愛などと説明がされますが、この研究はスウェーデンの神学者 A.ニーグレンに基づくものと言われています。ところが聖書はそう簡単に愛を分類している訳ではなく、このような語の表面的な使い方だけで理解しようとすると、混乱に陥るか、こじつけを他人に説明することになりかねません。エロースはもちろんプラトンの希求する愛の説が大きな影響を与えますが、それも聖書の時代や環境とは異なりますし、第一聖書にはこの語は登場しません。私たちも安易に決めつけて分かったふりをするのではなく、一つひとつの呼びかけを自分が正面から受けて、応えていく営みを続けていきたいものだと思います。
 
今日もイエスは、私の軽薄な思い込みに喜んでいる場面で、「しかし、わたしは言っておく」と楔を打ち込んでくるような気がするのです。



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