国語教育の危機と変革

2019年9月21日

気がつくと、最近キリスト教関係でない本を最近よく読んでいました。文学に目覚めたわけではありませんが、これほど何冊かの小説を続けて読むということは、これまであまりありませんでした。中にはとてもご紹介できないような艶なものもありますが、案外そうした本の情報をお待ちの方もいらっしゃるかもしれません。それはそれでまた考えることにします。いや、学生時代に一時外国文学にはまりましたし、浪人中辺りから、夏目漱石に浸っていたこともありました。何も文学が嫌いであるわけではないのです。
 
意味や説明を求めようとするとき、文学はむしろ反対方向へ進む道であるようにも思われます。私たちは思考を言語によってでしかなしえないのですから、なんとか言語化して、普遍的に伝達しようともがきますし、なんとか相手に考えや思いが伝わるようにと努めます。このときの言葉というのは、文学的な言葉とはフィールドが違うように思われます。
 
詩にもずいぶん多く向き合ってきました。けれどもここではいま、小説と呼ばれる地平に立ってみましょう。小説の書き方なるタイトルを掲げた本も、いろいろと目にしてきました。それは、著者の数だけ書き方があることを私たちに教えてくれています。定義も不可能だし、方法もひとつには定まらない。どだいそれは無理なことなのです。絵の描き方や曲のつくりかた、歌い方が一つではないのと同じように、無数の文学が成立するわけです。
 
しかし、同じ言語を用いておきながら、この文学的な、伝わりにくさ、ないし意味の掴みにくさというものは何なのでしょう。入試問題に自分の文章が用いられたという作家が、その国語の問題を解いてみたら散々な成績だった、というような話もざらです。つまりは入試の国語の問題は、問題作成者の意図を読み取ることが肝要であって、文章の筆者のそれを見破るのとは違うことなのだ、ということのようです。
 
その国語の問題がいま揺れています。間もなく大学受験の国語もですが、高校の教育課程での国語が姿代わりをします。すでに小中学校でも、授業はかつてのものとは大きく変貌を遂げているのですが、それはこの大学入試を見上げてそれに関連して、のことでした。文学的な要素が明らかに減少し、現実に意味を読み取るという作業の重視が始まるのは間違いありません。これを憂える文学者や評論家の声が盛んに発されています。
 
正確に文を読み取る読解力ということをひとつ俎に上げると、これが散々な状態になっているということは否めません。私もある程度の自信はありましたが、緊張感がない場面だと読み間違いをすることが分かり、油断はできないと構えるようになりました。ある調査によると、中学生あたりがあまりに酷く、とても学校の教科書の文章が読める状態ではないのだということが分かってきたということです。これは実感します。文章が読める子は、昔ながらの、参考書を読んで理解していくということができるのですが、いまの多くの子が、それができなくなっている――だから塾に中学生が集まる、その現状をひしひしと感じています。語彙の少なさもさることながら、文章の上っ面を情報として撫でるようになんとなく見ていくようだと、ちょっとした論理的構造の理解を求める文章は、全然意味が分からないというのです。これは現場にいても確かにその通りだと思います。
 
だから、論理的に意味を正しく読み取るという訓練のために、国語教育が変わる、というのは、それはそれで意義は理解できます。無駄だとは思いません。もちろん、こうした読み取りの能力は、本を読めば身につくとき、訓練すればできるようになるとかいうものでないことも、いまは分かっていますから、教育制度で改善できるのかどうかは、未知の分野だと言わざるをえませんが、危機感をもつべきことであることは確かでしょう。
 
それでも、国語(そもそも「日本語」と呼ばずして「国語」と呼ぶあたりから問題が隠れているのですが)という学科は、言語活動を論理に絞ったものではなく、また単純に言語の習得だけではないのかもしれません。特に義務教育の国語は、「道徳」でもあるという考え方が知られています。わざわざ道徳の授業などなくてもいい、小中学校の国語の授業の中で、十分に道徳が教えられている、また教えられていくべきだ、というわけです。これも一理あります。そうなると、そこには論理的に、一義的な意味の読み取りに限らない世界があり、それを各自が察知するということになり、まさにこれが文学的な味わいだということになるでしょう。いまなお「読書感想文」というのが成立して、同じ本から優れた感想文が毎年新たに登場しているのは、そういうことであろうかと思います。そしてこうした両面的な活動は、互いにコミュニケーションをよくするように用いられて然るべきだとも感じます。このことについていま考えを展開することは差し控えますけれども。
 
豊かな言語活動から、一人ひとりの生き方に影響を与えることばが投げかけられていく。国語がそうした授業の場であってほしいと願う者のひとりです。おっと、こうなると、教会の礼拝説教というものも、確かにそのような役割を担っていることにもなるでしょうね。いのちのことばが解き明かされていく。私たちはそれを、どう聞いているでしょうか。上っ面を撫でていく、感覚的な読み方、聞き方で終わっていないでしょうか。え、眠っていたから聞いていない? 時にそういうこともあるでしょうけど、毎週はいけませんね。もったいないことです。語られる言葉は、神の出来事として現実化していくものです。それも、聞く私の中において、会衆の集まりにおいて、その教会すなわち礼拝の共同体において。



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