【メッセージ】名を呼ぶひと

2019年9月15日

(ルツ2:23)

ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」
 
ルツが落ち穂拾いに出かけることをナオミに言うと、ナオミはさしたる感情も励ましもなく、行っておいでと送り出します。新共同訳では「たまたま」そこはボアズの畑であったと言いますが、口語訳や新改訳は「はからずも」とあり、聖書協会共同訳では「図らずも」と漢字にしています。これは原語のニュアンスを上手に訳したものといえます。つまり元は「ハプニングだった」という感覚で描かれているように見えます。
 
逆に考えると、私たち人間は、常に図っています。時代劇などでよく「図ったな」というセリフがあったものですが、策略を練って自分を陥れたという相手に告げる言葉でした。「謀る」という漢字のほうが適切であるかもしれません。悪意を以て謀るというほどのことではなくても、私たちは自分で将来のことを計画します。昔だったら、就職して何歳で結婚して子どもを産んで家を建てて……などと右肩上がりの人生設計をするように、生命保険会社はもちかけてくるものでしたが、最近ではそんなことが言いにくくなりました。私たちは計画通りの人生が見えにくくなっていますし、ちまちまとささやかな喜びを見出しながら人生を楽しむほかないような閉塞感に包まれているようにも感じられます。
 
人が自分で決めたとおりになると夢を抱くのではなくとも、人はならかしら予定を立て、自分の人生に何らかの見通しをつけることをしないわけにはゆきません。子どもたちが受験という壁を越えていくのも、その合格の先に、自分の夢に近づく道があるものと信じているからでしょう。それでよいのです。
 
けれども、聖書はしばしば、人の計画する道ではないものが成ることを知らせます。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9)というのが、聖書で言うノーマルな理解でしょう。世界の出来事も、神の考えのままに成立し、進んでいく、という考え方です。これを神の「摂理」といいます。神が世界の主であり、神の計画が実現する、神の言葉こそが実現していくという捉え方です。これを突き進めれば、予定説が語られ、へたをすると運命論のようになる場合がありますが、それについてはいま拘泥しないことにします。
 
ともかく、人が「図らずも」と感じるとき、それは自分の計画通りに事が進むのではないことを知るときですし、それを神の業であると捉えるのが、神を信仰するということの重要な側面であることを、まずは押さえておきたいと思います。
 
そこへいくと、このナオミは、ここへくるまで実に予定を狂わされた人生を歩まざるをえなかったものだと同情します。ナオミは、まず飢饉に見舞われました。夫エリメレクの決断ではあったでしょうが、モアブでなら生活できるという計画を以て、故国を去ったのでした。ところが予定外にも、夫が死んでしまいます。男性の働き手を欠くということは、生活できないという絶望的な事態に陥ることでした。ただナオミには、二人の息子がいました。これは頼りになります。不幸中の幸いのように、この二人の息子は結婚して何とか生活が成り立ちます。結婚相手にイスラエル人でなく、地元のモアブ人という外国人を選ぶことは、まあ仕方がないことでした。しかし、ここでまた計画が狂います。子がないままに息子が二人とも死んでしまうのです。遺されたのは自分と二人の外国人の嫁のみ。こんなことは予想していなかったはずです。ナオミは人生の不幸をすべて背負ったかのように、狂おしい気持ちで、人生の虚しさを噛みしめていたことでしょう。
 
いまさら故郷に戻っても、裏切り者呼ばわりされるかもしれません。しかしどうせ死ぬならば異国でなく生まれ落ちた国がいいと考えたのではないかと推測します。ナオミは恥を忍んで故国に戻ることを計画しました。しかしそこに外国人の嫁を連れて行くわけにはゆきません。嫁たちをなんとかモアブに置いて行こうと計画しました。まさかまた夫になる男を産むことを期待しているのではあるまいね、などと尤もらしい理由を突きつけて。ところがです。あろうことか、馬鹿正直なルツは引き下がらず、ついて行くと言いました。ばかなとナオミは目を見張りましたが、イケズを理解しない田舎者相手に京都人が困るどころの問題ではなく、本当にこの純朴な外国人の嫁のことを、鬱陶しいと思ったに違いありません。これもナオミの完全に予想外のことでした。
 
なにをいまさらおめおめと。ナオミは俯きながら故郷に戻ります。誰にも見つからずにこっそりと元の家に戻るか、うまくいけば親戚に面倒を見てもらえるかしらと一縷の望みを抱きつつ足を踏み入れます。ナオミは、人に会いたくなどなかったのです。しかしこれも図らずも大騒ぎとなり、取り囲まれてしまいました。もうこうなると晒し者です。ナオミはちっとも自分の思った通りになりません。
 
なんとか食べなくては。ルツは健気にも落ち穂拾いに行くと言います。ナオミは見送るときもやる気がありません。こんなことでいくばくかの麦を拾ってきたところで、何になろう。貧しい生活がいつまで続くというのか。ふてくされたかのように、「わたしの娘よ、行っておいで」と冷たく送り出すだけでした。
 
しかし、たまたま落ち穂を拾おうとルツが入った畑が、図らずも、そこはナオミの親族のボアズの畑でした。このことがナオミに伝わったのは、ルツがたらふく麦を抱えて帰ってきたからでした。今度はその大量の収穫こそ、ナオミの思惑とは食い違っていた事態でした。
 
ナオミはここまで、悉く「はからずも」の連続でした。そして自分の名前にこめられた「快い」などとは無縁な人生となったことをぼやき、神が自分を不幸にした、と幾度も口にしてはいじけていました。
 
旧約聖書続編のトビト書には、がちがちの律法主義の善人トビトが登場します。ユダヤ的には立派な人間なのでしょうが、妻が仕事で予想外の報酬を得てきたのを見て驚き、盗んできたのなら返してこいと言い張ってやめません。それで妻がついに怒るという場面がります。この後にトビトは失明するという災難に遭うのですが、ナオミはトビトほどがちがちの堅物ではなかったようです。「はからずも」ボアズが現れたことで、変わります。トビトは金持ちでしたが、ナオミは貧乏だったというのも関係があるかもしれません。自分の立場に弱さがありました。神に向けて悪口を叩くようなこともありましたが、同時に、神により取り扱われたという自覚も起こされたのではないかと思います。
 
ナオミはルツの口からボアズの名を聞きました。このとき、ナオミから見える景色が変わります。もしかするとこれは身請けをしてもらえるかもしれないと期待したのだと思います。ルツの話しぶりからすると、ボアズはたいそう親切にしてくれました。希望が出て来ます。人生経験豊かなナオミです。ボアズがルツに好意を抱いた様子を感じとって、もしやと感じるのは当然だったと思うのです。
 
さて、これがまたもやナオミが予想したことと反対になるのかどうか、それは今後の展開を待つしかありません。でもここまで言ったのですから、ネタバレをすると、ナオミの期待したとおり、あるいはそれ以上のこととなります。さらに、神はナオミが思いもよらない栄誉を与えることになるのですから、良い意味でナオミの予想を裏切ったことにもなるでしょう。ナオミは快い者となります。そこまでを図らずもの尺度で見るならば、ここに人の思惑や功績によらない、神の徹底した恵みの業を見ることもできると思います。
 
ところでもう一つだけ、注目したいことがあります。ナオミは当初やる気がなかったと述べました。そのやる気のなさは、物語の描き方からもはっきり現れています。ナオミとルツとの会話において、ルツはどのように表現されているだろうか。見てみましょう。
 
モアブの女ルツがナオミに言った、のように書いてあります。「モアブの女ルツ」、これです。イスラエルの人に読まれる文章としては、軽蔑的な響きさえもった上での、「外国人の女」、という冷たい表現です。その後ボアズのところからたんまり落ち穂を抱えて戻ってきたときには、「しゅうとめ」と「嫁」と書かれています。その他、日本語だけを読む限り、筆者は幾度かルツと書いているように見えますが、原文には実はルツとは書かれていません。これは日本語訳の問題であす。日本語では「彼女は」、とは普通書きません。中学校の英語の授業とは違うのです。ヘブル語では特に、わざわざ代名詞を用いて「彼女は」という語を使うことは普通なく、動詞の変化形でそれを示しますから、事実上「彼女は」という意味の語はないのです。ただ、「彼女に」という語が使われているところは原文にもあります。けれども今度はこれを日本語で「彼女に」とはやはり訳さないものです。日本語だと「ルツに」と書きます。福音書なども、彼が彼を、というのはざらです。これでは日本語は分からないから、神がイエスを、のように解釈して訳してあります。ですから代名詞が何を指しているのかについて、それでよいかどうか議論になる場合もあるのです。まとめると、ナオミとルツの会話の場面では、「ルツ」という名前でまともに書かれていることはなく、差別的な「モアブの女」のような書き方のときにのみ「ルツ」という名前が使われているに過ぎないのです。それはまるで、ナオミがまともに、ルツという一人の人格を認めていないかのように見えないでしょうか。
 
しかし、最後に実は「ルツ」とはっきり出てくるようになっています。ここです。ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです……」と、ボアズの登場で人生が変わるかもしれないと期待した瞬間に、現金なことに、「嫁ルツ」にまで昇格しているのです。ナオミはここでルツに対する感情を一変させたことが伝わってきます。ナオミは、もうモアブの女という目で見なくなったのです。この瞬間、ルツという個人を認め、尊重するように変わったのです。
 
ところが、ボアズとルツとの場面は違います。ボアズは最初から「ルツ」に話しかけています。まだ「ルツ」という名を見かけ上ボアズが知らない段階で、筆者はボアズが「ルツ」に話しかけたのだと書いているのです。たしかに畑の農夫を管理していた召し使いは、モアブの娘だとボアズに説明しており、それは世間の眼差しがそうであったことを示しています。つまり故国の人々は、ナオミが胡散臭い外国人の嫁を連れて戻ったことを非難していたであろうことが伝わってきます。けれども、ボアズとルツの長い対話の場面で、筆者はただの一度もモアブ人という侮蔑的な表現を用いていないのです。これは、ボアズが、ルツをルツとして、ひとりの女性として、ひとりの人間として受けとめて目に映し、向き合い、対話をしているということではないのでしょうか。
 
ただ、実はボアズは物語の終わりのほうで一度だけ「モアブの婦人ルツ」という言い方でルツのことを口にしています。どこだかお分かりでしょうか。もう完全にネタバレになってしまうのですが、ボアズよりも先にナオミの土地を買い取ってしまう権利のある親類がいたのです。優先権があるその人がエリメレクとナオミの土地を受けると言えば、ボアズは抵抗できません。そこでボアズは一計を案じ、その男がエリメレクの土地を買い取らないようにしたのです。その男が、土地を受けましょうと返答した瞬間、ボアズは言うのです。では土地を買えば、モアブ人のやもめ、つまり人妻であったあのルツもついてくるが、それでいいか、と。こうして、その土地の取得をその男に諦めさせようと企み、成功するのです。
 
ボアズはこの差別的な表現を、方便として使いました。ということは、自分としては、ルツに対して決してそのような見方はしていなかったことになるでしょう。世間的に見れば、侮蔑されていた外国人であり、しかも結婚したことのある、女としての価値の薄い汚れたとされていたルツでしたが、ボアズは微塵も気にしていませんでした。落ち穂広いの現場での最初のルツとの出会いのときから、ルツの出自をすべて知った上で、向き合っていたのです。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」とボアズに言われたとき、ルツはこのような言い方をしています。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」ナオミにも、またベツレヘムの人々からも、これまで「心に触れる言葉をかけて」もらったことがなかったことが明らかではありませんか。
 
生まれや過去のことで、人は簡単に他人を差別をします。しかしボアズを通して示してもらったこの真摯に人として向き合う姿、それはただボアズが偉かったということでしょうか。確かにボアズは神に選ばれた人物であったと思います。けれども私たちは、これの完璧な姿をイエスに見るはずです。イエスはどこから見ても、このボアズ以下のことはしていないのです。私がどんな過去をもち、私がどんな生まれであろうとも、私の名を呼んで向き合ってくださる方、それがイエス・キリストです。
 
そのイエス・キリストは、私が願うことをすべて裏切って、さらによいものをもたらしてくださいます。ボアズとルツの間から、やがてダビデが、そしてまさにこのイエスが生まれてくることになりましたが、イエスはボアズとは比較にならない犠牲を払いました。そのような恵みを与えるに十分なほどに、尊い血を流し、十字架の上で苦しまれたのですから。



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