【聖書の基本】復讐

2019年9月15日

悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39)
 
そんなことができるわけがない、とよく持ち出される、有名な言葉です。新共同訳ではこのペリコーペ(礼拝で読み上げるために切り取られた聖書の一部)に、「復讐してはならない」とタイトルが付けられています。これは原文にはありません。便宜上、聖書の翻訳者が付けているもので、ある意味でひとつの解釈に過ぎません。事実、ここには「復讐」という言葉は出て来ません。だのに、私たちの目を「復讐」というところに向けさせているわけですが、果たして本当にこの箇所は「復讐」について考えさせる箇所であるのかどうか、考えてみる必要がありそうです。訳者がつくった溝に水を流す必要はありません。自分が聖書と向き合うことが大切です。たとえば、ここでは悪人に返すという復讐をしないどころか、それ以上に、悪人に与えることや、相手と共に労すること、さらに求めてくる者を拒むなというところにまで落ち着きますから、もし私がここから話をするならば、復讐という概念とは全く関係のない話をするでしょう。
 
とはいえ、今回はメッセージのタイトルに「復讐」の文字が使われていますから、聖書の中で「復讐」という言葉がどのように使われていたのか、代表的なところを拾っておくことにします。
 
旧約聖書だと、さぞ血なまぐさい復讐に明け暮れていたのだろうというイメージをお持ちの方はいませんか。しかし実は旧約聖書は極力復讐を抑えようとしているように見えるのです。
 
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:18)
 
まさに黄金律ともされ、新約聖書の福音書で重要な掟とされたものは、中傷や偽証、憎しみを遠ざけるように律法は命じていました。但し、これは対象が同胞であり同じ民の人々である点は、見ておかなければなりません。十戒のうち「殺すな」も、同胞であり仲間に対しての命令であったことを知ると、どうしてイスラエルの民が戦争を繰り返したのか、少しだけ疑問が解けるだろうと思います。
 
その後、カナンの地を征服(!)して、定住するようになったとき、各部族が一定の領域に住まうことになりますが、その中に6つの特別な町を設置します。それらは「逃れの町」と呼ばれ、過失致死罪を犯した人が逃げ込めば、復讐されずに済むという規定で守られていました。
 
意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。(ヨシュア20:3)
 
これは逆に言えば、その逃れの町の外であれば、血の復讐は認められていたということになります。日本でも中世から江戸時代にかけて、「仇討ち」という制度がありました。一定の制度で秩序づけられている必要がありましたが、復讐心は人間の自然な感情であったと言えるのでしょう。しかしそこへ、過失の場合には復讐されることは不合理だとする見解がここにあったことになり、注目されます。
 
そもそも古代オリエントでは、あの楔形文字で刻まれたハンムラビ法典という有名な法典が私たちに伝えられており、「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ24:20,その他同様の規定が出エジプト21:24,申命記19:21)というイスラエルの律法に影響を与えたのではないかとも考えられています。これはいかにも残酷なようでもありますが、復讐の程度を制限したものだ、と捉えることも可能です。私たちは相手から一の害を受けると、倍返しをしたくなるのが心情というもの。それを、一を返すことしか認めない、というわけです。
 
復讐は復讐を呼び、無限の応酬を招きます。現代でもパレスチナの地での争いはその傾向を帯びていますし、アイルランド問題や、各地でのテロにもそのような説明がなされることがあります。人種間の対立にも見られることがありましたが、ガンジーの運動に感動し黒人問題にそれを用いたキング牧師は、その復讐心を抑える運動を起こしたと言えるでしょう。この二人ともが凶弾に倒れたことを、私たちは心して受け取り、また継承していく決意をもつべきこととして、記憶しなければならないと私は考えます。
 
しかしたとえば預言書を見ると、神が復讐をする、というような言い回しが多々あります。ひとつだけ引用すると、「ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ/お前たちはわたしにとって何であろうか/わたしに復讐しようというのか。もし、お前たちがわたしに復讐するなら/わたしは直ちにお前たちの頭上に復讐を返す。」(ヨエル4:4)という具合です。イスラエルに敵対し虐げをもたらした国民に主自身が復讐を返すということのようです。これも私たちは神妙に受けとめなければなりません。
 
詩編では、敵を呪うようにして、主が立ち上がり、復讐してくださいと祈るものがあります。
 
主よ、報復の神として/報復の神として顕現し
全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。
主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。(詩編94:1-3)
 
しかしイスラエルの敵に対してだけかと思っていると、そうでないものもあります。モーセが死ぬ直前、恰もイスラエルを呪うかのように、その民の堕落を預言して歌うシーンがありますが、その中でイスラエルに向けて、神が復讐することを告げています。
 
わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。(申命記32:35)
 
選びの民の中で、主を離れる者が現れ、それを裁くという点を、私たちは心して受け止めなければなりません。
 
こうした点を、新約聖書でも、自ら復讐をするものではないというふうな意味で、パウロが述べています。
 
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ローマ12:19)
 
また、ヘブライ書では、信徒が故意に罪を犯し続けた場合の報いとして同じところが引かれています。
 
「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。(ヘブライ10:30-31)
 
こうした「復讐」についての背景を弁えておくことは、新約聖書を理解する上でもヒントになることでしょう。最後に、黙示録という、聖書の結末においては、神に復讐を求めた末、ついにそれがなされるという連関が見られますので、引用しておくことにします。神の裁きの日はしばしば「報復の日」と呼ばれて、イザヤ書やエレミヤ書でその考えが展開されますので、預言書の中ではとくにこの二つに注目するとよいかもしれません。
 
小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録6:9-10)

その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。(黙示録19:2)
 
さて、マタイ5:38-42から、あなたに与えられたメッセージは、何だったでしょうか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります