自分が変わりたいと思うなら

2019年9月9日

いつまでも変わらない、というのが男女の愛だとよく思われていますが、互いの存在も変化するし、環境も変わりますから、何かしら変わっていくのが当然ですし、その変わった相手並びに自分においても、愛の関係が変わらないかどうかというのは、微妙な設定となるでしょう。ある意味で変わらなくても、実のところ変わってしかあり得ない、などというように。
 
変わらなければならない、という人もいます。「あなたが変わるのを止めるその日、あなたは生きることを止めている」(アントニー・デ・メロ司祭)という言葉を、加藤常昭氏が引用していました。変えられることや変わることを拒否する人びとは、「信仰とは不変のものであるという真理で自己を正当化する」とまで鋭く指摘しています。自分は正しいと言い張る、ひとの愚かさの核心には、このような背景があるのだろうと思われます。
 
けれども、自分が変わらないと思うのは、傲慢な精神からくるとばかりは限りません。変わりたい、という気持ちや願いがあるにも拘わらず、どうしても自分は変われない、あるいは変わるはずがない、と諦めている心も、確かにあると思います。こんな自分が嫌だ、こんなふうに扱われる自分のままでいたくない、そんな切なる叫びが聞こえてきます。場合によっては死と隣り合わせの状態でそのように呻いている魂も、きっとあるでしょう。変わりたいけれど変わることができない。情況は何も変わらない、という苦悩があるのです。
 
宗教に入って、そんな自分を変えたいと思う人もいます。明るくなりました、という人もいるでしょう。それがたとえば、金運がよくなりましたとか、彼氏ができましたとか、そんなふうなところで喜んだり、あるいはそれを目的としたりという声も聞きます。しかしまた、そういう目に見えたものが手に入らなければ、変わったことが分からない、というのもつまらない。でもまた、自分の心の持ちようですよ、という教えも、なんだか胡散臭い。
 
新しく変わる。それはきっと簡単に変わるもの。但し、多分に変えられるから、後で振り返れば確かに簡単だと思えても、それ以前には自分がどうなるか、不安で不安でたまらないのが普通。むしろ、自信満々に変われるぞなどと考えているほうがおかしいでしょう。
 
キリスト教は、宗教という呼び名には合わない、と考える人がたくさんいます。便宜上、あるいは法律上、それは宗教の一つということになっていますが、上に挙げたような意味での宗教とは一線を画しているのは本当だろうと思います。結果的に、簡単に、変わることができる。新しいすばらしい世界と出会うことができる。しかしまた、昔の信仰物語にあったかもしれないように、古い誰かを捨ててしまうようなことではありません。先祖でも親でも、大切なひとを置き去りにすることではないと思います。その人たちを心に生かしている私をまるごと引き受けたような形で、変わらない存在が、私を変えてくれる。何を言っているか分かりにくいかもしれませんが、すでに信仰をお持ちの方ならば、分かって戴けますね。



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