【メッセージ】わたしは不幸だ

2019年9月8日

(ルツ1:7b-22)

あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。 主の御手がわたしに下されたのですから。(ルツ1:13)

あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。(ルツ1:16)
 

ナオミは不幸でした、ベツレヘムで結婚し、二人の男の子を与えられたまではよかったのですが、その後飢饉に見舞われました。なんとか食べるものを、と国を出てモアブの田舎に移り住みました。ユダヤからすれば異邦の、できれば近づきたくない土地でしたが、背に腹は代えられません。すると夫が死にました。なんとか息子二人はモアブの娘と結婚を果たしましたが、今度はその二人の息子が死んでしまいます。血の繋がらない外国人の嫁二人と残されたナオミ。やがて、ユダヤ地方の飢饉はなくなり、ナオミは故郷に帰ることに決めました。とはいえ、かつて飢饉だからと言って土地と仲間を背に、汚れた地モアブへと逃れた身です。肩身の狭い思いをすることは間違いありません。それでも、少なくともナオミはもう、モアブの地に残る必然性はないのです。
 
ナオミは不幸でした。しかし不幸な中で、ひとの幸せを願う気持ちは忘れませんでした。嫁たちのこれからのことを考えると、ユダヤへ連れ帰る理由は何もないことに気づきます。また、ユダヤに戻ったにしても、自分には何の食い扶持もないのですから、嫁を養う力はありません。最初はナオミについてユダヤのほうに向かいかけた二人の嫁でしたが、ナオミはある時決断します。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」
 
嫁たちはこれを聞いて泣きます。たぶん、泣くでしょう。しかしここで二人は、「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります」と言って、ナオミの傍を離れようとはしませんでした。これは心からそうだという理解もありますし、そのように一度は言うのがしきたりや文化のようなものだ、というふうに捉えることもできます。二人の本心は分かりません。が、およそ他の事例から比較しても、このように建前上ありえないことを言っておいて、相手がそれを断って、それぞれの思いが成就する、という流れが、聖書を読んでいるとよく目につきます。ここでも恐らく、泣き悲しみ、別れを惜しむという段階をひとつ踏んで、それから決定的な事をなすというひとつの手続きだったと考えることにします。
 
ナオミは、自分についてきたところで、そこに再婚できる夫がいるわけではない、と言います。レビラト婚を踏まえていると思いますが、ここでナオミは少しユーモアを含ませたかのように、もし仮にいますぐ自分が再婚して男の子を産んだとしても、それが育って一人前の男になるまで待つつもりなのか、と現実的な説明をします。しかし、それにもまして、「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから」とナオミは漏らします。これで二人はさらに声をあげて泣き、オルパが去って行きます。
 
ここで、オルパを責めることはできません。当然の対応だろうと思います。そして、ナオミの思惑を普通に理解した、当たり前の判断であったことについて、とやかく評することはできません。そこへいくと、ルツは普通ではありませんでした。ルツのほうが異常な反応であったのだし、だからこそナオミもルツに、オルパのように行けと慌てるのです。思惑どおりに動かない相手には往生します。ルツの振る舞いは、そもそも帰る家などなく、もはや身寄りがなかったのかもしれないと思わせるほどの勢いでした。但し、本当に身寄りがないのであればナオミは、ルツに郷に帰れとは言わなかったでしょう。礼を失することになるかもしれませんが、もはや継ぐべき家も男もいないのですから、新たな人生を出発させたほうがましでしょう。
 
ルツの反応を見るに、姑としてナオミには魅力があったのだろうと思われます。なおもすがる嫁たちに対して、ユーモアを含めた対応をしたとすれば粋なものです。さらにこのとき、ナオミが泣いたとは書かれていません。義務を果たそうとしたのか、あるいは故郷へ帰って罵られようと、それを自分ひとりが引き受けようとする気っぷの良さのようなものがそこにあったのか、ナオミはナオミでなかなか魅力的な姑のようです。不幸なら不幸で、それを単独で引き受けようとする覚悟を感じます。
 
オルパは先に背を向けました。しかしルツは離れませんでした。ルツは言います。美しい言葉だと思いますので、味わってみましょう。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」これほどの健気な従順さに、私たちはそうそうお目にかかることはないでしょう。確かにイエスに従う弟子たちは、なにもかも捨ててイエスに従ったと言いますが、男はそこへ言葉を用意しません。言葉を出すときには、断るときの言い訳になります。しかしルツは、言葉に出して、心を伝えようとします。イエスの弟子たちはそれぞれ何を思ってイエスに従ったのか、私たちに明らかにはしてくれませんでしたが、ルツはその思いを残らず語ってくれました。そこには、信仰的なものはあまりないかもしれませんが、人間的な情緒溢れる、愛情いっぱいの言葉が選ばれているように感じます。
 
これほど愛される姑として、ナオミの中に幸福を見出すことはできないでしょうか。むろん、他人がとやかく言うことではありません。不幸な境遇の人に、あなたはまだいいわよ、というような慰めはすべきではありません。そう、この見方は罠です。私たちも陥りやすいのです。悲しんでいる人に向かって、辛いですけどいい面もありましたよね、まだ誰それがいるじゃありませんか、などと、無責任で傷つける慰めを吐いて、善人面をするようなことが確かにあるからです。いえ、分かってますとも。よかれと思ってのことなのです。悲しんでばかりの人に、よかったと思えるようなことを見出してほしい、明るくなってほしいという願いそのものが直ちに悪いとするのも冷たい気がします。けれどもその言葉を、それを慰める側が言ってはいけないのです。傷ついた当人が、そのように理解して新たな一歩を歩き始めるというのならまだよいのですが、外部の者がそれを言ってはいけません。言うなれば、大けがをさせた加害者が、被害者に向かって、死ななくてよかったね、などと言い放つことがありえないように、傷ついたひとに投げかける言葉へ、刃を向けるようなことはしてはならないのです。
 
でも、ナオミの中に何かしら慰めとなるものがここに与えられたと考えることは、心に留めておくことにしたいと思います。ナオミはルツを説き伏せることは不可能だと感じて、二人でユダヤへの旅路を急ぎます。極端に遠い道のりではないのですが、山の上り下りが激しいので、治安を考えてみても、決して楽な旅ではなかったことでしょう。
 
こうしてベツレヘムに二人が着くと、大騒ぎとなりました。見たところ、ナオミは好意的に迎えられているように見えます。あなたはナオミね、と声をかける人がいたことに対してナオミは、自分のことをナオミとは呼ぶな、と言葉を返します。ナオミという、日本人の名前のようなこの名は、現地語では「快い」といった意味を表すように聞こえるのだそうです。たとえば「悦子」とか「嘉子」とかいうような名であったとして、名前の通りではありませんのよ、と返しているように思われます。
 
そもそもナオミにとって、おめおめと舞い戻ってきた立場でもあり、まともに顔を見せるというのは勇気のいることだっただろうと思います。町の人々がどよめいたというふうに書かれていますが、さてそれをどう受け取ればよいか私には分かりません。ただそれは必ずしも優しさの故ではなかったように思います。この後ナオミたちは落ち穂拾いという、惨めな暮らしを強いられるのです。見るところ、孤独な生活を強いられていたように見受けられます。しかもルツという外国人を連れて帰った訳ですから、ナオミもまた外国人扱いをされたようなものだと思うのです。つまり、よそ者だ、と。
 
ナオミは、人々に取り囲まれて、まず言いました。「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」神の悪口を言うように聞こえますが、不幸な目に遭ったことを人々に示して、同情を買おうとしたのかもしれません。あるいは、自分の境遇からくる絶望を、やはり神のせいのようにしなければ立ち上がれなかったのかもしれません。神が悩ませ、不幸のどん底に落としたのだと、繰り返すこととなります。続いて再び自分をナオミとは呼ぶなと制して、「主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされた」と言うのです。
 
そういえば、先に、二人の嫁と別れようとするとき、ナオミが、主の御手が自分に下されたのだという言い方をしているところがありました。「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」ナオミは自らの不幸を嘆き、それは神の仕打ちなのだと説明しているのです。これは、神に不信を懐いているかのように見えますが、すべての出来事を神の内に見ていると受けとめることも可能です。もしそうなら、ナオミは立ち直る道が見えてくる可能性があります。
 
私たちも自らを不幸だと考えることがあるでしょう。そのとき、このナオミの不幸から、何かを知ることができます。神がこのように自分を不幸にした、ということを三度繰り返すナオミですが、すべてただ同じように愚痴を述べているだけなのでしょうか。ナオミの心情を私たちが察したり決めつけたりすることはできないと思いますが、私たちの身に置いて捉えることは許されるのではないかと考えます。
 
さて、このペリコーペの末尾で、記者は改めて振り返り、モアブ生まれの嫁を連れ帰ってきたことを確認し、それが大麦の刈り入れの始まるころだったと記します。これが実質の、この物語の始まりとなります。
 
ここまで見ると、ナオミにしてみれば、確かに不幸な身の上となりました。確か不幸です。しかし他人が、あなたは不幸ですね、と言う訳にはゆきません。他方また、妙に同情して生活の助けを出してやる訳にもゆかない事情があります。それをする者がいるとすれば、法に則った、資格のある者が生活を支えるという規定があるばかりでした。
こうして女二人のどん底生活が始まります。ルツは自分の意志でついてきました。しかもあなたの民はわたしの民だとまで言いました。普通この場面から強調されるのはこのルツの言葉です。恰もルツが全能の神を信仰しているかのように立派に受け取るのですが、今回ここまでこのカッコイイ言葉には拘泥しませんでした。専ら、ナオミの不幸の自認に注目してきました。ただ、ルツが口にしたこの言葉を最後に、私の想像を交えた上で、味わってみることにしましょう。
 
「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」とルツは確かに言いました。きっと、さして深い意味はなかったのではないかと想像されます。けれども、ナオミを必ずしも温かく迎えたわけでない――当然だ――町の人を、ルツは預言的に、わたしの民だと受け容れていたことにならないでしょうか。ルツは運命そのものや、周囲の人々を恨むことはしませんでした。この姑を育てた町を愛そうと思ったのではないでしょうか。それで自分の生まれ育ったモアブを捨て、新たな環境を受け容れる覚悟と共に、ここまで歩いてきたのではないでしょうか。
 
その決意には、自分は不幸だという感覚はなかったことだと考えます。ところが横でナオミは、さかんに神が自分を不幸にしたと繰り返します。この姿には違和感を覚えたかもしれません。しかし、そんなナオミに向けて、あなたの神はわたしの神だとも宣言したのです。ルツは、これは不幸なことではない、という明るい前提でベツレヘムまで来ました。それは良きにつけ悪しきにつれ、ナオミのような神観はもたなかったのではないでしょうか。
 
ルツのこの明るさは、やがてナオミに笑顔を取り戻させるように働きます。最後に思うのですが、日本人は後から、あなたの神はわたしの神、とキリスト教を受け容れた異邦人です。ルツと同じなのです。私たちが明るく、不幸を神がもたらすとは考えずに信仰していくことにはひとつの意味があると思うのです。たとえばヨブのように、不幸をもたらすのは神だとするのは、ナオミの弱さであるかもしれませんが、神との確かな関係の中にある神観としては、他人が立ち入ることができない強みでもあります。つまり、それが致し方ないのも本当です。しかしまた、異邦人として私たちは信じたい。人間の醜さや汚さに絶望せず、またこの世と身の上に悪しきことがはびこることも乗り越えて、静かに従うことで、幸福あるいは恵みを噛みしめることができるはずだ、と。



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