エスカレータの右に立つ

2019年9月3日

今年から私は、エスカレータは右側に立つことにしました。と言うと、関西の方には意味が伝わりにくいかもしれません。それが標準のようですから。福岡は、東京と同じように、エスカレータは左側に立って乗り、右側は追い越す人のために空けておくという暗黙のルールがあるのです。
 
このルールは、それほど古い時代のものではないと思います。自分の経験の中でなんとなくそれが定まってきたように覚えています。当初は、思いやりの精神からではなかったか、とも思います。つまり、どうしても急ぐ人がいて、エスカレータでは階段のように、前の人を抜いて進むことができないのは気の毒だということで、追い越し車線のように片側を空けるという習慣が始まったのではないかと推測します。
 
けれども最初に生まれたスピリットに関係なく育った人々は、あるいは最初を知っていた人々も、そのうちそれが当たり前のようになり、今度は、片側空けない者は非常識とでも言わんばかりに、後ろから圧力をかけるようになりました。あるいは、くねくねと縫うように足早に追い抜いて行ったり、またそのときに鞄を故意に、塞いでいる人にぶつけていくようなことも横行し始めました。
 
実際、故意でなくても、荷物などがぶつかることはよくあることで、お年寄りなどはこれでよろめいて事故になることもあり得ます。私はそれを目撃したことはありませんが、そういう事例を聞いたことがあります。以前、新聞のコラムで、左手が不自由で右手しか利かないから右手で手すりを握るために右側に立っていたら後ろから怒鳴られたといった話を用いて、この理不尽な習慣に警告を投げかけるものを読んだこともあります。
 
かつて私も、前に塞いで立つ人がいるとイライラしたこともありました。だからこれは自分への戒めとして、改めて考えていくという試みになります。
 
鉄道会社も、このエスカレータでどんどん歩いて行くことについては、注意を促すようになりました。いまは駅でもそのポスターが貼られ、啓発に勤しんでいます。これはエレベータの構造上、片側に常に重みがかかることへの問題も含め、とにかく危険であるというのが一番の理由で、それは確かにその通りなのだろうと思います。ですから、後ろから文句を言われたり、舌打ちされたりするようなことは、いまこれまでのところはありません。
 
しかし、今度は私の左側を抜けてどんどん人々は歩いて行きます。そして前の人は左側に立っていますから、今度は右側、というように蛇行して、ぞろぞろと人々がエスカレータを降りて行く、というような恰好になりました。これも危険ではありますが、しかしここのところ、えてして私に不満も表さず、おとなしく後ろでじっと立っているという人のほうが多くなりました。本当に急ぐなら、左側を通りすぎていくだろうに、それもせずじっとと止まっているのです。
 
これはどうしたことでしょう。ここから推測に入ります。思うに、貼ってあるポスターにも多くの人が気づいている。啓発の声も聞いたことがある。エスカレータを歩くのはよくないという価値観に賛同する思いが芽生えてきた。だから、塞ぐ私がいると止まる。
 
けれども、一人が歩いて追い抜いて行くと、その後ろからもぞろぞろと歩いてついていくという現象もあります。これはどういうことでしょう。これも推測します。たとえばこのように考える。「いや、エスカレータは本来歩くものじゃないんだ。知っているよ。でも、前の人が歩いて行っちゃったんだな。ここで自分が立ち止まっていると、自分が道を塞いでいるみたいだ。それで文句を言われても嫌だし、歩いてはいけません、などと正義漢ぶってポリシーをぶちまけるような真似を一人でするつもりもないし、仕方なく歩くんだよ。そう、これは自分の意志じゃない。前の人も歩いているんだし、自分一人で逆らうというのもなんだから、みんなに合わせて、流れに合わせているだけさ」
 
一昨日、他人がするから自分もするしかないんだ、という心理を少し考えてみました。今回はその延長です。自分一人で他人と違うことをすると、その行為に責任が伴いますし、何か文句をつけられたら自分一人での仕業なのですから、強い弁明を求められることになります。みんながしていることであれば、自分一人のわがままでしているのではなくて、みんなに従っているだけ、というように責任を逃れる便利な情況にあることになります。こうしてそれをする人々が「みんな」のせいにして、自分はただその「みんな」に従っているだけだ、という論理を互いに主張することで、自分は責任者ではないという言い訳をもっているという図式になります。
 
果たしてその「みんな」とは何か。聖書はよく「すべての人が」と言いますが、文字通りallであるはずはなく、「多くの」とか「一部の」とかいう意味に過ぎないことは明白です。それと同じように、誰か少しでもしている人がいれば「みんな」という隠れ蓑を、私たちは平気で行うのです。「みんな車留めているじゃないか。自分だけじゃない」と強く思うでしょうし、「みんなスマホ持ってるんだから、私も」と子どもが主張するのも普通のことでしょう。私たちは都合の好い「みんな」という概念を持ち出します。
 
こうなると、たとえエスカレータで弱者が危険に晒されているという現状を認識していたとしても、ひとりが歩き始めれば、ぞろぞろとその後ろの人々は、大名行列のように従わねばならないという言い訳を胸に、大きな流れの一部に平気でなっていくということが起こります。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、戦争に乗じていく人々の心理のひとつはここにあります。何も、まずは脅されて戦争に与するのではないのです。仕方ないだろう、自分のせいじゃないよ、というノリで戦争に加わっていき、後で仕方がなかったと弁明する割には、その最中には今度は他人を強いる一員にしっかりなって大勢に付いて身の安全を図るということを、人はとってしまいます。こうして戦争一色のムードを、自らは意識せず責任逃れをしたつもりでいて、実は自らこしらえて人を強いていくということを行っていくのです。それができてきたからこそ、権力が強気で取り締まり、脅すようになっていくのではないでしょうか。つまり被害者面する私たちは、憲兵がいるから従わねばならなかった、というふうに考えたいのですが、実のところ自分たちがなびいていたからこそ憲兵が強く言える世の中を作った、とすべきではないかと考えるのです。
 
これは、キリスト者やキリスト教会はそうしないぞ、というようなものでもありません。太平洋戦争のときに多くの教団がどうしていたかを挙げれば、十分その証明になるでしょう。そしてそれは戦争に反対の声を挙げればいまはそんなことなどない、と言い切れるかどうか、それもまた別だと考えます。すっかりイベント化して半年前から準備を重ねたいそうな労力と費用をかけて大々的に開催するクリスマスのイベントを、当然参加するはずだよね、と「みんな」の義務的な「流れ」のように、当たり前のように繰り返す教会のあり方を、このエスカレータの通行にたとえるのは、さて、不信仰でありましょうか。
 
そういうわけでとりあえず、私は今日もエスカレータの右側に立っています。ひとりよがりの正義なんてつまらないし迷惑なんだろうという思いも、ないわけではないのですが、もし私がいることで、私のことを理由にしてでも、あの「流れ」に自分を乗せて安心したまま危険をもたらす側にいかなくて済むひとが増えればそれでいいし、何よりも、このことで誰かがひとりでも、危険に晒されずに済むのであれば、それでよいかな、と思いつつ。そして、小さいお子さんを横に立たせ、親がしっかりとその手をつないで安心していられるのが当たり前となることを願いつつ。



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