【メッセージ】帰るところがある

2019年9月1日

(ルツ1:1-7a)

ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。(ルツ1:6)
 
ルツ記を読みます。ヨシュアとダビデの間の頃の物語です。エジプトからカナンの地に来たイスラエル民族は、部族ごとにまとまっていましたが、神は適宜「士師」と呼ばれる指導者を選び、民が滅びぬようリードする役割を与えていました。しかし、その士師の支配を逃れたアウトローがここにいました。ある人と初めは名を伏せられるほど、特別な者ではない男がこの舞台に登場します。
 
その名はエリメレク。ナオミという妻と、二人の息子がいました。マフロンとキルヨンという名も記されています。ユダのベツレヘム出身の家計で、エフラタ族であったと紹介されています。ベツレヘム自体がエフラタと称されることもあり、肥沃であることを意味する言葉のようですが、名前にこめられた意味を読み解こうとすることは今回の読み方には適しません。謎解きをしようとしているのではないからです。
 
ユダの地で飢饉があった、これが発端でした。どういう経緯や伝手があったのかは分かりません。エリメレクの家族4人は、ユダの地を出て、モアブの野に移住しました。死海をまたぎ、反対側に位置する、イスラエルからすれば異邦の町に移ったということです。しかし、このエリメレクは死んだことが告げられます。理由も背景も分かりません。ただ、残された妻ナオミが二人の息子を抱えて困窮したことが容易に想像されます。それから息子はそれぞれに妻を娶ります。異邦の地ですから、イスラエル民族の女と出会えるわけではなかったようで、モアブの女結婚しました。その名も記され、一人はオルパ、もう一人はルツといいました。
 
十年ほど経ったとき、二人の息子が死んだと記されます。ナオミと二人の嫁だけが残されました。但し聖書は、ナオミが一人残されたと言っています。あくまでもイスラエルの側からの言及なのです。モアブの女たちはまるで人格がないかのように、ここで残された人間は、ナオミ一人なのです。
 
この後の動きに私たちは目を奪われますが、一度ここで立ち止まってみましょう。イスラエルの書を読み慣れた人には、不思議な情況がここにあるのです。ここにある「十年」がいつからカウントされるのかは分かりませんが、流れからすると、この二組の夫婦は、十年ほど結婚生活を続けていたのですが、子どもが生まれていないのです。当時女にとり子どもが生まれないことは恥辱的なことであったことが、聖書には幾度も書かれています。ヤコブの愛したラケルはなかなか自分の子が与えられないことで死ぬほど苦しみました。それ以前に、アブラハムの妻サラとハガルとの問題も、これに関することでした。サムエルを産んだハンナの祈りは切なかったし、新約ではエリサベトの悩みも感じます。もしこの十年が結婚生活を意味するのであれば、かなりの問題です。それとも、女たちはモアブ人だったので、イスラエルの女たちのように悩むことはなかったのでしょうか。いえ、ナオミこそやきもきしていたはずで。家系を途絶えさせないためにも、男の子が誕生することを絶対のことと考えていたに違いないイスラエルの民にとって、このように後継ができないことは、とても大きな悩みであったはずです。けれどもこの物語は、そのことを一切問題としていません。
 
また、ナオミからすれば、二人の息子に、いわば先立たれています。日本では仏教的な背景から、子どもが親より先に死ぬというのは、親不孝の罪であるとも考えられました。賽の河原で、石を積んでは鬼に壊されるということを繰り返す、死んだ子どもの哀れな姿が説法で語り継がれました。後継ができないことは、その家の断絶を意味するという考え方からすれば、それを戒める必要があったのかもしれません。ナオミは後継が生まれないばかりか、息子たちの死によって、後継を将来的に生むことすら絶えさせられたことになりました。この絶望は如何ばかりだったでしょうか。このことで望みを失い運命を呪うことがあってもよいものを、聖書はそうしたナオミの心理を描き出そうとはしません。実に淡泊に、ナオミがモアブの野を去ってユダの故郷に戻るという決断をした、ということしか記さないのです。
 
このように、その心理を鑑みると重大な悩みがあるだろうと思われるにも拘わらず、ナオミがこうした点で苦しんでいたというようなことを、聖書は記すことがありません。ナオミは男手をなくし、身寄りもないこのモアブの地を離れて、再び故郷のベツレヘムへと戻る決心をしたというだけです。どうしてかという理由のひとつに、今度はユダのほうで食糧が豊かに与えられるようになったという話が伝わってきたからだ、という説明を、聖書は加えています。かつてユダにいたときには、ユダが飢饉で豊かなモアブに逃れ、労働の担い手を失ったときに、豊かに戻ったユダに戻ろうとする様子が描かれ、そこに二人の嫁も家族として同行することになった旨が、この後の話の展開に必要な前提として押さえられています。ここまで、話はスムーズに流れているように見えなくもありません。
 
でもそうでしょうか。私はたいへん引っかかりを覚えるのです。すでに子どもがなかなか生まれなかったことと、子に先立たれたナオミの悲しみや苦悩が特に描かれずあまりにもあっさりしている、ということを不自然だと指摘しましたが、それはいわば単に描かれていないというだけの問題であったかもしれません。しかし、この新しい問題は、描かれていないというだけでは解決しないものを含んでいるように見受けられます。
 
それは、ナオミがかつて、いわば捨てた故郷に、またおめおめと帰って行こうとしているが、果たしてそんなことが心理的に簡単にできるのだろうか、という問題です。いわば、その土地が飢饉だからと言って、仲間を見捨てるようにして、自分の家族だけが外国に逃げた、そういう過去をもつナオミが、その土地に戻ってくるのに抵抗はなかったのか、という話です。
 
私は、いくつかの教会を知っています。その中で、円満に次の教会へ送り出されたのは、京都から福岡の故郷に帰るときの一度だけで、その他はまともに別れも告げずにその教会を出ました。悪魔だと罵られながら飛び出たこともありますし、親しかった人に申し訳ないと心で詫びつつも、この教会ではやっていられないと黙って去ったこともあります。なかなか十年とひとつの教会で続かないままに、こうしたことを繰り返してきました。まるで荒野の40年なのかと冗談のひとつも言いたくなりますが、その背景や理由も様々で、ここでいまそれを取り上げようとするつもりはさらさらありません。
 
ただ、それらの教会に戻ってきてほしいと言われても、戻る気持ちにはなれない、という点を確認しておきたかったのです。中には、騒動も治まり問題の人々が去ったからぜひまた戻ってきてくれたら、というラブコールをくださったところもありました。しかし、理由はどうであれ、自分が黙って去ったその教会を再び訪れるということは、そう簡単にできるものではありません。もちろんその後こちらも相応しい居場所が与えられたが故に、新しい関係がスタートしているという事情もありましたが、たとえそうでなくても、戻ることは難しかったことでしょう。戻っても許されないから、だとは考えません。また教会というのはこの世の組織とは違うところがありますから、人間関係から気まずくて、という理由も適切ではないと思います。信仰の問題は、あらゆる人間的な事情を超えてはたらくので、別の信仰にコミットすることはもうできない、というのが一番の理由ではないかと思います。
 
いずれにしても、私がナオミだったら、自分の境遇がまた悪くなったから、かつて飛び出た故郷に再びお世話になろうとする決断は、できなかっただろうと思います。だのに、ナオミは国に帰ることにしました。あっさりとそれを決め、さっさと住み慣れたモアブの地を後にして、外国人の嫁たちも連れて行こうとします。直後に、この二人の嫁はモアブの地に残してひとりでベツレヘムに戻るようにと動きますが、とりあえずまずは二人の外国人を連れて帰ろうとするのです。もし外国人を連れて帰ったら、ユダの人々が何というか、恐らく分かっていたはずです。だからまた、途中で帰そうとするのかもしれませんが、とにかくナオミは最初はさっさと嫁たちを連れて自分の故郷に戻ろうと行動を始めるのです。あまりにも淡泊です。いったいどうして、こんなにさっぱりとした行動が取れるのでしょうか。
 
それは、旧約聖書の文面を追いかけるかぎり、分かりません。何か文化的な背景があって、研究者にはそれは常識であるのかもしれませんが、少なくともテキストを読む限りは解決しない問題だと思います。ですから、ナオミがどうしてなのか、をこれ以上追いかけるわけにはゆきません。
 
そう。人々を裏切って自分だけがいい目を見ようとして、故郷を飛び出してきたナオミ。少なくとも、仲間からは当時そのように見られていた可能性を否定できないナオミ。しかしナオミは帰ります。何を考えてのことは分かりませんが、迷わず帰ります。そのように私たちも還るところがあるのではないかという目で探してみましょう。私はナオミほどの行動を取れないにしても、ナオミのように帰ることができるのではないか、というストーリーを想定することには意味があるように思います。ナオミに帰る場所があったように、私たちもまた、帰る場所があるのだ、と。
 
あんな酷いことを人にしてしまった。でも許してもらえるならば戻りたい。私が壊したことは確かであるけれども、かつての関係をまた結びたい。親子の和解を望むということもあるでしょうし、友との関係を築き直すということを望むこともあるでしょう。ただ普通なかなかそれはできないこと。許してもらえないこと。でも、私を赦すと宣言した方がいる。その身をぼろぼろなままに晒すまでして、私の側の問題を解消してくれた方がいる。そして当の私に、戻っておいでと呼びかける方がいる。
 
それは十字架のイエス・キリスト。私が十字架につけたという意識を離れることのできない、イエス・キリストの姿。痛みの極致のその手を拡げて、ここへ帰っておいでと待っています。血に染む掌を差し向けて、ここを見よ、ここに帰るのだと導きます。過去がどんなであろうとも、これまでに負いきれないほどの重荷を抱えていようとも、戻れない事情は何もないのだから、と迎え待つ、それがイエス・キリストの十字架なのでした。
 
もちろん、このイエスを見ることができる者だけがさしあたりこの恵みを受けます。神を見る幸いは、己れの認識に基づきます。自分を誇り、自分を神のように見なし扱っている者には、決して見えません。イエスを知識で知っていても、それでも見えません。会うことができないのです。自分の惨めさとどうしようもなさを痛感し、とても神の前に出られるような者ではないと打ちひしがれるとき、初めて自分が神の前にいることが分かります。そこには十字架があり、見上げればイエスがそこにいます。すると不思議なことに、そのイエスと共に自分もまた十字架で死んでいることが分かるようになります。私たちが神の許に帰ることを妨げるような、自分の汚い姿、またそれを認めず気づかないようなあり方を、キリスト教の言葉である「罪」と称してよいかと思いますが、こうしたものが幻のように消え去って、はっかりともうイエスと共に死んでいる自分を体験するでしょう。そのとき、私は確かに神に呼ばれ、神に誘われ、神の用意したところに帰ることができます。
 
私たちにも、帰るところがあるのです。あの十字架のキリストを上げることができるなら、そのキリストと出会うことができるのなら、私たちは居場所を失うことはありません。私たちには、帰るところがあるのです。



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