意味を伝える言葉自体の意味

2019年8月28日

先日、失礼なものの言い方をしてしまいました。いえ、当人は失礼のつもりではなかったつもりでしたが(いや、それこそ問題でもあり、偉そうな面をしていることの愚かさが分かっていない証拠なのですが)、そのように聞こえたことだろう、と後から悔やんだと言ったほうがよいでしょうか。
 
礼拝メッセージについて分かち合う――話す場でした。話の内容は割愛しますが、その中に結婚式のことが関わってくる脈絡でした。「昔、しゅうげんをあげるときには……」と私が切り出して話を始めた後、ありがたいことに、質問が入りました。「その『しゅうげん』というのは何ですか?」
 
「え」と私は止まりました。他のメンバーの顔を見ると、そちらでも「それは何?」という反応をしています。私は「そっか、『しゅうげん』が通じないか……」と天を仰ぎました。もちろん、それを悪く言うつもりはなかったし、改めて「『しゅうげん』というのは……」と静かに説明を初めて話を進めました。皆さん分かってもらえました。
 
質問をしたのは30代の方、他の20代の方も追随し、「???」と、「しゅうげん」に対して反応をしたことは、私にとり、かなり意外だったのです。普通、子どもたちに話をするときには、この言葉だと子どもたちには通じない、ということをある程度予想した話し方をします。語彙を選びもするし、何かしら分かりづらい言葉を言い放ったと感じたら、直ちに言い換えたり説明を施したりします。そういう習慣ができているので、今回わたしは「しゅうげん」について、無防備だったのです。普通に通じるという気持ちでいたもので、面食らった、というのが正直なところでした。そのため、もしかすると「そんなことも知らないの?」というように聞こえたら、不愉快な気持ちを与えてしまったことになるだろう、と後で反省をしたというわけです。
 
先日ある記事で、「『枚挙に暇がない』とテレビである人が口にしたとき、周囲の雛壇の芸能人がこぞって、「そんな言葉は知らない」と言い始め、「そんな言葉はない」と笑いが番組を包んだことに対する嘆きのようなものが書かれているのを読みました。知らない言葉について、そんなものはない、と大勢で圧するというのは恐ろしいことだと感じさせるに値しましたが、「枚挙に暇がない」と口にした人も、まさかそれが通じないとは考えていなかったでしょうし、まして、そんな言葉はないと糾弾されるなどとは、考えてもいなかったことでしょう。
 
年代的なものもありましょう。私にしても、さらに年配の方の言葉には意味の分からないものがあります。とくに、生活の道具の名前や、かつての時代の習俗めいたものになると、触れたことがない故に分からないということは確かに多々あるかと思います。同様に、自分が誰かに何かを伝えるときにも、その相手の生活や知識の範疇になければ、意味が伝わらないということは、当然あるわけです。しかも、大抵の場合、その言葉の意味は何ですか、と今回の私へのように質問してくれることもなく、分かったふりをしてそのまま過ぎるか、意味の伝わらないままに終わってしまうか、ということのほうが多いだろうと思います。
 
何が言いたいか。キリスト者は、「福音を伝える」という使命を受けています。それをしたいと願わない人は少ないでしょう。良いニュースを自分が知ったら、ひとにも知らせたい。これもまた自然な感情だと言えましょう。けれども、もしかするとその「福音」という言葉すら、意味が伝わらないものの一つになっているかもしれません。言葉の定義は難しいもので、確かに神学的に「福音とは何か」と問うと、大変な議論になる、とも言えるでしょうし、マルコの福音とパウロの福音とはどう違うか、などと言い始めると、それだけで何冊もの本になってしまいそうです。しかしそこまでいかなくとも、キリスト教会で用いる用語、あるいは聖書の中の言葉は、その言葉の意味そのものが、そのまま話して伝わるようなものではありません。はじめに言があった、というその「言」ですら、信仰した上で納得できるレベルのものであって、いうなれば、説教で語られている言葉すべてが「隠語」のようなものである、ということを根底に置いておく必要があるのではないかと思うのです。
 
だから、説教では「説き明かし」が重要な要素にもなっています。まさに「説明」ですが、こうなるとまさにパウロの言う「異言の説き明かし」の場面そのものであるとさえ言ってよいものとなります。だから、専門的な異言ではなく、誰が見ても分かるような「生き方」の姿そのもので神を伝える、というような考え方も当然成り立つわけでしょう。子どもは親の背中を見て育つ、といいます。時に親は、言葉でじっくり伝えることももちろん必要ですし、言葉にならないことも、日々の生活で実は伝わるものです。逆に言えば、いくら口先で綺麗事を言っても、親がそのように生きていなければ、子どもはむしろ偽善すら感じ、それを覚えていくということにもなります。教会で語る言葉、教会や聖書のことを語る言葉、そして日々の生活の姿、それらにキリストの知恵と香りが現れていけばよいのに、と思いつつ、のたうちまわっているのが実情、というのがキリスト者のありがちな日常なのでしょうか。
 
 
【付加】あ、すごく気持ちの悪いままにここをお読みになった方もいらっしゃるかと思い、「しゅうげん」の意味は蛇足かもしれませんが明らかにしておきます。「祝言」はもちろんその漢字のとおり、祝いの言葉ですが、とくに結婚式、正確に言うと披露宴のことを言う言葉です。神前結婚でもない、今で言う人前結婚のようなものが本来の日本で夫婦の契りを結びそれを証拠立てる場であったとも言えるでしょう。アニメでも昔の様子を描いたものには時折出て来ますが、後で私は思いました。じゃあどうして私にとりこの言葉が当たり前だと思えていたのか。以前は時代劇について何らかの形で知識がありました。テレビでも高視聴率を上げていましたし、子どもでも知っていました。本当に江戸時代の言葉であったのかどうかは分かりませんが、話し言葉はとくに江戸後期はかなり今に近かったのではないかと言われています。それでも、テレビの時代劇で「祝言を挙げる」というのは常套句でしたし、画としても焼き付けられていました。今、時代劇とかチャンバラとか、子どもたちは知らないですね。だから20代、30代となってもそれは似たようなものだったということを思い知らされました。こうなると、『高瀬舟』だの『羅生門』だの、高校の教科書に載るような文学も、殆ど平安時代の古典を読むのと同じような読み方になっていることになりましょう。室町時代あたりから、生活や言葉が現代とつながりが強くなるというのが常識かと思っていましたが、もはや太平洋戦争から後がせいぜいのところだというふうになりつつあるのかもしれません。



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