キリスト教を信じていることが恥ずかしい

2019年8月18日

キリスト教信仰は西洋のものであり、日本は違う。日本人が無前提に思い込んでいる誤りではあるにしても、そう思う理由がないわけではありません。西洋の歴史は、キリスト教をベースに成り立ってきました。ローマ帝国における公認、そして国教という歴史を踏まえて、続く王国はキリスト教を、国をまとめるために利用してきました。あるいは逆に、キリスト教会側が国家を利用したといった方がよいかもしれません。
 
日本でも、元来外国の宗教であった仏教を、都と人心をまとめるために利用したところから、仏教の歴史が国家と共に展開したという事情がありました。仏教は教義上、必ずしも排他的である必要はなかったので、神道とつながるなどもでき、複雑な歩みを経てきましたから、キリスト教と西欧文化との関係とはまた違う雰囲気をもっていると言えるでしょうが、国家と宗教という問題は、まだまだ歴史の中でも、今後の歴史を考える上で、必要な検討課題であるだろうと思います。とくに国家神道が天皇という日本の精神的中核と結びついたときにどんなふうに恐ろしいことを当然のことのようにしていったかということについては、精神文化と共に、まだまだ警戒しつつ捉え直さなければならないと言えるでしょう。いまの社会でも、その危険性が指摘されているということは、あの歴史が明確な予防線を築くに至っていないことになるからです。キリスト教国ドイツがどうしてあれほどの残虐なことができたのか、完全ではないにしろ、懸命に食い止めようとしているドイツの姿勢からも、学ぶ点が多いだろうと思われます。
 
元に戻りますが、西洋ではキリスト教が社会文化の基礎になっていることは、さしあたり認めておく必要があります。ただそれが、キリスト教信仰がしっかりしている、というふうに受け取ることは、また別の問題です。教会に皆が行くわけでもないし、行く人々の信仰が、日本人クリスチャンが想像する「信仰」をもっているかどうかも怪しいものです。教会が廃れていること、信仰者の割足も減っていることなど、深刻な問題がキリスト教界にあることは否めません。
 
それでも日本に「輸入」されたキリスト教のあの時代には、西洋のキリスト教はいまよりもエネルギーがありました。日本のキリスト教界は、そのときの体験を基礎に置いているように見受けられます。教会音楽はオルガンに限ると感覚したり、礼拝のプログラムはあの当時のものこそが伝統だと決めつけているような向きは、いまもなおあるものです。だからまた、世の中でキリスト教こそがリードしていくべきもの、多数派である理想の姿が頭を過ぎり、キリスト教こそが社会常識あるいは良識だという幻想がどこかに、もしかすると中心に、あるような気がしてなりません。
 
イエスの教えに従う弟子たちは、あの時代、社会のつまはじきものでした。異端でした。貧しく身分もなく、律法を守れないとんでもないやくざな者たちでした。イエスはそうした者たちの中に入っていき、そうした境遇からまさに「救った」のでした。私たちがイエスに従うということは、世の中で誰しもが当然の常識として認めていたあのユダヤ教のお偉いさんの言うことを聞くことではありませんでした。しかし、西洋から「輸入」されたキリスト教は、そのお偉いさんの言うことのほうに近いものでした。西洋文化を尊敬する動きの中で、キリスト教は、よそからのものであっても、尊重すべきもの、偉大な文明を築いた国の宗教として、受け容れられるようになったために、それを信仰した人々は、偉いものだと見られることもあり、また具合の悪いことに、信仰した人々自らが、自分を偉いものだと考えるようにもなりました。
 
ここまでの歴史理解には、誤解もありましょうし、嘘偽りもあるかとは思います。あってもよいと思っています。しかし、言いたいことはここからです。つまり、私の信仰しているキリスト教というものは、偉いものではないのだ、ということです。
 
歴史の中でキリスト教は、「罪もない」人々を虐げてきたことがあります。最初は迫害されていたかもしれませんが、権力と結びついたときに、今度は迫害するほうに回りました。いまはそれをいちいち数えません。さらに、権威としているのはまさに「聖書」ですが、そこに書いてあることは神の言葉だと自分が信じるばかりでなく、社会全体にそのようなものとして敷衍した、言い換えれば信仰しない人々にも押しつけたために、「聖書」が罪とすることをするような人々を糾弾、殺害してきました。「する」人々ばかりでなく、そのように「ある」人々をすら、「聖書」に書いてあるという切り札と共に一刀両断し、命を奪うことをなし、しかもそれを正義として世に示すという、「いじめ」の構図を堂々と実践してきました。
 
キリスト教とは別の、たとえば「基本的人権」という原理から、現代で、かつてキリスト教が迫害してきた「罪」を擁護するように、キリスト教は大きく態度を変えつつあります。同性愛者を迫害し殺してきた歴史を根拠づけたのは「聖書」であり、キリスト教界であったと言っても差し支えないと思うのですが、それをいまの教会が、「人権」という世の原理を理由にして護りにかかりました。自分たちこそが彼らを殺してきたにも拘わらず、キリスト教では一人ひとりを大事にします、などとごまするような顔をしながら、平然と彼らの味方であるように振る舞っている一面があるのは事実ではありませんか。キリスト教は正義の味方です、と自己義認をして、さも昔から同性愛者を擁護してきたような顔をしているように見えて仕方がないのですが、如何でしょうか。
 
むしろ必要なのは、謝罪することだと思うのですが。悔い改めることが第一に必要だと思うのですが。
 
私はというと、そんな歴史と傾向性を抱えもつ、そんな信仰をもつに至りました。オレはこの正しい「聖書」を信じているのだから、オレは正しい、というような態度を、巷で見聞きする、あるいはついそのような心理で発言している様子を知ると、自分はこの人たちのようにはなれない、とつくづく思います。私は、人類史上とてつもない悪をなしてきた宗教を、信じているのであって、限りなくそれを恥ずかしいと思っています。
 
キリスト教が福音として、虐げられた人々を救うために世界に拡がっていったという聖書を信じるわけですが、だとすれば地の果てのさらに海を隔てた向こうにあるこの日本で、福音がくまなく世界に伝えられた終曲のような地において、この世にも恥ずかしい、虚偽と偽善と流血にまみれた信仰を、私は恥ずかしくも信じてしまいました。キリスト教は立派な宗教ですよ、と高いところから語るような気持ちには、さらさらなれません。語るのも恥ずかしい信仰です。なにしろ、最悪の犯罪人を処刑する十字架で殺された者を主と仰ぐのです。とても人に威張って信じましょうと、まして信じるべきだなどと、宣伝できるものではありません。「聖」なる「書」だというものの、書かれてあるのは要するに人間のどうしようもない悪辣で醜く、ここにないものはないと思われるほどの、罪のカタログの本です。いったい、こんな恥ずかしい本を、自分は「聖書」を知っていますなどと言って、自分を誇るような顔をしながらセールスできるはずがありません。まして、自分は偉いんだなどというような気配すら、とてもとてもできるものではありません。
 
本当に、しみじみそう思っています。でも、こう思うことが、聖書を信じるということなのではないか、ということがうすうす分かってきています。また、そのように思わないことには、パウロの手紙を読んでも、なんの意味もないということが、ようやく最近実感できるようになりました。



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