僧侶との出会いから牧師の条件を考える

2019年8月12日

教会の説教なら数知れず聞きましたが、仏教の説法というものは、小さい頃のものは覚えるわけもなく、去年の母の葬儀や法要などで短い説法を聞くことが、とても新鮮に感じられました。
 
母は曹洞宗の寺の生まれです。私の実家への帰省というのは寺であって、小さいころから寺の本堂の風景と香りを知っています。そこには、日本の仏教宗派の開祖や本山をまとめた模造紙の表が掲げられており、私は小さいころからそれをそらんじていました。後に歴史でそれが登場したとき、何を分かり切ったことを今更、と思ったことを思い出します。また、母の愛する般若心経を覚えろと言われ、小学生のときには意味も分からずただ暗誦しておりました。魔除けにもなるから、と言われて、なんだかそんな気持ちになれました。
 
家系について詳細に明らかにはしませんが、わが家にはいろいろな事情があり、母は私の姉たちの父親を亡くした後、その弟である私の父と結婚し、私が産まれました。しかも一種の姻戚関係の中での結婚で、親戚関係も入り組んでいるのですが、その父方の家は浄土真宗の檀家でした。そういうわけで、今回の母についての仏教行事もすべて、浄土真宗の僧が事を運ぶことになりました。私がこのような信仰をもつに至り、墓地は寺院の配下から父が離してくれたこと、感謝に堪えません。それというのも、浄土真宗のほうで、近年縛りが厳しくなってきている背景があるからでもありました。私は浄土真宗関係の学校にいたことがあるために、事情はよく知っています。また、仏教思想をかじるというほどではありませんが、基本的な理解はいくらかはあるつもりです。
 
そういうわけで、先日も「阿弥陀経」が詠まれましたが、般若心経をそらんじている以上、単語はいくらか聞き取ることができ、またその思想内容も想像できるので、なるほど仏教にいくらかでも結びつける気持ちがあるならば、阿弥陀如来にはイエス・キリストの姿を思うような気持ちで浄土真宗の人は見ているのかもしれないなぁなどと考えていました。親鸞のいわば破格な振る舞いは、ルターの宗教改革に重ねて見る人が多く、その思想内容にしても、確かに類似点がないわけではありません。もちろん根本的な部分が違いますから単純に似ていると言って喜ぶつもりなどありませんが、確かに親鸞もまた宗教改革と言えばそういうことをしたのであって、その後多くの衆生の信仰を集めたのも、プロテスタントが広まったのと決して別の世界のことだというふうに見るのはもったいないくらい、似た側面があるのは確かです。
 
さて、この法要の中で私は、一連の僧の話や振る舞いを、教会の牧師とはどう違うのだろうという気持ちでじっと聞いていました。
 
そもそも始まる前にこの僧、最初まず靱帯を傷めていることを告げ、正座できないので椅子を使うことを断っていました。それは仕方のないことですが、その傷めた理由が、坊さんの野球チームの試合で傷めたと言って笑い始めました。おやおや。牧師だったらそんなことは言わないことが多いだろうと思いました。この盂蘭盆の檀家巡りを控えた、最も準備を怠ってはならない、いわば精進の時期に野球に励み体を傷めるというのは、言ってみればプロ意識の薄いことであって、恥ずかしいことではあっても、あははと笑って知らせるようなことではないはず。申し訳ないという言葉に終始することはあっても、私ならばとても笑って話せることではありません。
 
それから、母が曹洞宗の寺の生まれという話を聞いていなかったのか、そしてそれほどに故人のことをよく知らないままに、あまりにも浄土真宗のやり方を強調し、その立場からの考え方を押しつけるかのような言い方と、故人もそれを望んでいたという決めつけ方をすることにも、引っかかりを覚えました。いわゆる檀家というわけではないのですから、仕方がないと言えば仕方がないのですが、果たしてキリスト教の牧師関係であったら、こんな話し方をするものだろうか、と頭の中で比較をすると、今まで出会った牧師は少なくともこんなふうには話さなかったことだろうなぁと思っていました。少しでも故人のエピソードを窺い、その人格を敬うような言い方をする中で、神は、という話はしたことでしょう。しかし、ついに母がどんな人生を歩んだか、という点には露ほども触れることがなく、浄土真宗では、とばかり話す姿勢には、やはり違うな、という印象を受けました。
 
また、父と母のなれそめについても、あまり上品ではない冗談をその僧は笑いながら口にするのでしたが、もちろんこれには様々な事情がありました。せめて、どんな事情があるのか、とか、何か事情や苦労があったのでしょうね、というふうな気遣いはあって然るべきところを、一方的に、自分の身の回りにも同じようなことが多い、などと何もこちらが関心をもたないようなことを話し続ける様子を見て、私は、この人は自分の中にあるものをすべて相手が聞き入れて受け止めてくれるものと確信し、目の前の人がどんな人であるのかを知りたいとか、受け容れようとかいう気持ちが全くないのだということを感じるばかりでした。
 
何もその人の悪口を申しているのではありません。牧師にも、そういう例があるということを聞いています。牧師の側の論理を相手に説明するばかりで、相手の状態を知ろうとすることに関心がなく、たとえ何かを聞き出しても、牧師が知るキリスト教教義や、牧師の側の論理を一方的に押しつけるというようなことが、少なからずあることは予想します。そういう悩みが、FEBC(キリスト教放送局)のお便りにしばしば出てくるからです。しかし、「愛」ということは、こうしたことではないのだな、ということはよく分かります。目の前の人のことを受け容れようとするのか、それともこちらの考え方を目の前の人に理解させようとするのか、その根本的な姿勢は、けっこうはっきり分かるものです。
 
ひとが、誰かに悩みなどを相談したいと思うのは、そのひとがまずは自分の言うことをじっくり聞いてくれると信頼している時でしょう。いきなり否定したり、そちら側の論理をまくし立てるようなことをするのでなく、まずはこちらを理解しようと聞いてくれる、そこから入るのでなければ、相談するという行為自体が成り立ちません。こちらのことを分かろうともしないままに、一方的に向こうの論理ばかりぶつけて返してくることを、悪い意味での「説教」と言います。しかし相談するのは、それを求めてのことではありません。場合によっては、よいアドバイスなどしてくれなくても、ただ「うん、うん」と聞いてもらえるだけでいい、ということさえあるのです。最近はこれを「傾聴」と言って、カウンセリングの基本に置くことがあります。しかし、相談となると、よく聞いてくれた上で、何かこちらでは気づかない視点で、いくつかの可能性をアドバイスしてくれると助かることもあります。新しい光が射しこむように、自分の暗い道が照らされるのを感じると、相談してよかったと言えるような気がします。
 
牧会学とかカウンセリングとか、いろいろ呼び方はあるのでしょうが、神学校ではそういうことも学ぶのでしょうか。しかし、改めて学ぶこともなく、その人の元来の人格的な部分で、当然そのようなことができる人はいるし、逆に、たとえ学んだとしても、素養のない人もいることでしょう。私はいろいろな人の相談を昔から受けることが多々ありました。多分に昔は押しつけがましいことを言っていたのだろうと思いますが、神に出会ってからは、また少し違うような気がします。イエス・キリストという素晴らしい模範が示されているからです。学問的な心理学については、本からも、また実地にいろいろな人との話の中でも体験しています。ある程度の年齢が重なってくると、それなりに心得るようになるものです。逆に、心理学を勉強すればできるというものでもありますまい。根底には、霊的なものがきっとあると思われます。信仰が育てる様々な徳、それはこうした一面にも現れてくるものだと思います。
 
牧師というのは、まずは説教ができなくてはなりません。そのためにはまず自分が神と出会い、その上で自分の語る言葉が神の言葉であって、出来事として実現する性質のものであるという確信と信仰の中で、大胆に自分の中で霊的に消化された言葉を語ることができなければなりません。それと同時に、人を理解しようと傾聴する気持ちが必要でしょう。基本的な心理学や、とくに精神医学的な医療の実地的な理解も必要です。鬱の方に言うべからざることもあるし、社会的な常識も弁えて、いま人々がどんな辛苦を抱えているかを理解することもできなければなりません。教会経営だとか、運営だとかいう事務は、誰か有能な信徒に助けられることはできますが、説教とこのカウンセリング的な面については、牧師自身が携わらなければどうしようもありません。そういうことができるのであれば、フルタイムであっても、パートであっても、構わないというのが私の考えです。いくらフルタイムでできますと言われても、説教ひとつできないとか、カウンセリングなどとんでもないとかいう人を迎えることはできません。その逆に、それができるのであれば、フルタイムであるかどうかなど、どうにでも解決できる問題ではないかと思われます。この辺り、教会があまりにもこの世的な組織に成り下がると、見えなくなってしまいます。これからの時代、教会の牧師というものは、従来の踏襲ということを絶対の条件とするのではなく、もっと本当に必要なことは何か、というところから、新しいスタイルでも構わないという考え方で行い、また教会もそういう姿勢で迎えることが、どうしても必要ではないかと私は思うのですが、如何でしょうか。



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