【メッセージ】信仰の異なる人と共に

2019年8月11日

(創世記41:37-57)

ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。(創世記41:45)
 
ヨセフは、エジプト人の妻を、いわばあてがわれました。エジプトの宰相となったヨセフは、もはや個人としてのヨセフであるわけにはゆかず、エジプトの命運を左右する存在となっていましたから、エジプト王がヨセフに最良の生活環境を与えようと努めたことは、ある意味で当然です。きっと名門の家の娘を備えたのでしょう。
 
そう。話は遡りますが、王の夢の意味を解き明かす知恵を披露したことで、ヨセフの予告した七年の豊作・七年の飢饉ということを知り、ヨセフにエジプト第二位の地位を王は与えたのでした。考えてみれば、これは大英断です。まだその予言が現実になるという保証はなにもなかったのです。それなのに、王も家来たちも、エジプトの主だった者は皆、ヨセフの言葉の通りにこれからなるのだということを、すっかり信じてしまったのです。この信仰は、不思議なことです。「神の霊」「神がそういうことをみな示された」という「神」は形の上では複数形ですから、エジプト流の神々を王がイメージしている可能性も否めませんが、そもそも創世記でも主なる神について複数形で表すということがある点を含めると、ヨセフを助ける唯一の主をイメージしていないと決めることもできないような気がします。考えてみれば絶妙な背景です。
 
王は、ヨセフに王の代理として機能する指輪を渡し、ステイタスとなる服を用意し、装飾を以てその地位を輝かせるまで配慮しました。車に乗せ、敬礼なる言葉で民を従わせ、絶大な権力を与えるまでに信じたのです。このとき、ヨセフに「ツァフェナト・パネア」という名を与えました。私も、この名まではそらんじていませんでしたから、聖書の中でもマイナーな記事であるかもしれません。ただ、後にペルシア王がダニエルたちに別名を与えるなどの例を見ますが、名を与えるということは、元来のイスラエルの名を使わせない意味があったのかもしれませんが、新しいこの地での権威を有するように至らせる重要な段階であっただろうと思われます。つまり外国籍の人が日本に住む日本国籍を取得して日本風の名を戸籍に登録するというようなもので、移り住んだ国の市民としての権利を与えることを意味すると考えられるのです。これまでヨセフはエジプトの奴隷の立場に過ぎなかったのですから。
 
「オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与え」られたヨセフ、そう、国の超一流の女性を世話することで、王はヨセフを間違いなくVIPと定めてしまったことになります。このときヨセフは三十歳。そして、筋書き通り、七年の豊作が続きますが、ヨセフは食糧を蓄える政策を実行しました。この七年のうちに、ヨセフは二人のを子を与えられます。聖書記者はしつこく、その母親が「オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである」と記しています。よほどこのことが大きな意味をもつ地位の保証であったかが窺われます。
 
さて、この妻はヨセフの妻として与えられたわけですが、当時女性がひとつの財産のように見られていたという事情だけで読むと、歴史的には正しいでしょうし、聖書の読み方としてはそれで正当なのかもしれませんが、私たちの身を切るような痛みが感じられず、ただの昔話として距離を置いて眺めるだけのものとなってしまうかもしれません。もっと距離を縮めましょう。私たちの時代にもしこのようなことがあれば、という観点です。
 
政略結婚というと当人たちはそこまで言わなくても、と言うかもしれません。政治家が妻を、偉い政治家の一族から得るということはよくあることです。そもそもがそういう引き合わせがあって結婚するということになると、別段通常の見合い結婚と変わることもなく、決して不純だとか意図的だとか、外野が悪口を入れる必要はないわけですが、庶民というものはどうしてもやっかみを感じてしまうことでしょう。しかし、家柄とか親族のつながりとかいう人脈の中で、このヨセフのような事例は、必ずしも現代に無縁のことではないということは認めることにしましょう。
 
だから外国に行き、外国人の妻を紹介される、または与えられる、ということ自体を問題とする必要はありません。ここで何が問題かというと、唯一の主なる神を仰ぐイスラエル十二部族の息子の一人としてのヨセフが、エジプトの宗教者の娘を嫁に与えられた、ということです。
 
後に、捕囚から戻るとき、イスラエルの民の信仰の立て直しのために、エズラは異国の妻をすべて追い出す命令を出します。ユダヤの純粋性を保持しようとしたと思われますが、イエスの系図には、素性の怪しい女性や異国の女性も含まれていますし、モーセの妻チッボラすら、ミデヤン人の祭司の娘だとされています。このあたり、徹底した原則があるわけではないものの、ヨセフにとり異国の女性をパートナーとすることについて、何か思うところはなかったでしょうか。
 
パートナーとは、「パート」つまり「部分」「分ける」といった概念からできた語ですが、プラトンが描いた神話のように、男女はもともと一つの完全な体であったのが、2つに分けられて違いに半身を求めるのだ、ということも、パートナーのイメージに隠れているのかもしれません。
 
ヨセフがどういう信仰者であったなどということはとやかく言いません。とにもかくにも、私たちがここを読むとき、クリスチャンである男性が、クリスチャンでないばかりか、多神教の他宗教の家の娘と結婚することになった、という事態を想定してよいのではないか、ということです。
 
日本では、この場面よりもむしろ、妻がクリスチャンとしての信仰をもっていて、夫が信者ではない、というケースのほうが多いように見受けられます。パウロもコリントの教会にそのような事例を挙げてアドバイスしています。ヨセフのように男としての立場が強い決定をもたらす場合には、まだよいのかもしれません。妻として信仰をもったとしても、教会に行くことを禁じられるという話をよく聞きます。そうでなくても、日曜日に一緒に行動をしない妻との生活は、夫にとり面白くないであろうことは容易に想像されます。しかし妻のほうとしては、夫に信仰をもってほしいと思うわけですから、こちらはこちらで、パートナーがクリスチャンでないことを痛みとして感じていることになります。
 
幸い私はそうではないので、身を以てこうした方々の痛みを味わうことはできません。軽く言ってのけることのできない、重い、日々刻一刻の辛さもあるだろうと思います。夫婦は一心同体、のように創世記を読むことがあります。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」というのです。しかし、家で信仰の話もすることができないままに、互いにひとつのかけがえのない結びつきをもって毎日生活しているわけです。自分の半身が、霊的に自分との関係において一体感をもつことができないことには、苦しさが伴うのではないでしょうか。全き信頼をもてるときには幸いかもしれませんが、夫の行動に疑いをもったとき、神という結びの帯に頼れない場合、夫婦関係の問題もさることながら、自分は疑ってはいけないんだ、などというような葛藤や苦悩があることも考えられます。
 
もうひとつ、ヨセフのこのエジプトでの栄華の中で、気がかりなこと、私たちにとり深刻な問題を垣間見る思いがするわけですが、それは、自分と信仰の異なる者に99%囲まれて社会生活を営むということです。後にヨセフの兄たちや父を呼び寄せますが、いわば異教の人々に囲まれて生きることになります。クリスチャン人口をかなり多く見積もっても1%といういまの日本はまだ恵まれているほうです。それでも、私たちは、クリスチャンでない人々に囲まれて仕事をしたり、地域生活をしたりしています。その私たちにとり、ヨセフの生き方は、たとえそれがやたら恵まれたものとなったとはいえ、注文すべきものがあるように思われます。
 
しかし、この点は物語には全く描かれません。旧約聖書のヨセフ物語には、こうしたことは問題とされていないのです。400年の時を経て、神が声をかけたモーセという指導者が、また新たに神との関係を結び、エジプトからイスラエルの民を脱出させるというスペクタクルは描かれますが、こうした信仰のナイーブな側面はまるで心配されていないかのようです。
 
むしろ、新約聖書のとくに書簡の中に、異教の人々に囲まれて生活していく上での知恵や忠告がたくさん書かれていますから、私たちは新約書簡を読むときに、この問題を考えていくことになるでしょう。この創世記の舞台では、その答えを見出すことはできません。しかし、だからここを読んでも意味がない、というわけではないと思います。
 
私たちはここに答えを見出すことはできませんが、ここに重ねて問うことはできます。しかし問うことは大切です。問うという意識の仕方がないことは、考えることもできません。キリスト者のいない「家庭」に自分の生活基盤をもつこと、キリスト者とは無縁の習慣や原理で動き、時に圧力をかけてくるような「社会」の中で、私たちはどうするとよいのでしょう。繰り返しますが、答えは要りません。私たちは、問うのです。そして、その問いの中で闘っている仲間のことを、より親密に思い、助けようという思いを、いつも温めておく必要があるのです。それが、「愛」のひとつに違いありませんから。



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