【メッセージ】夢を現実に

2019年8月4日

(創世記41:1-36)

「わたしではありません。
 神がファラオの幸いについて
 告げられるのです。」(創世記41:16)
 
創世記のヨセフの生涯を追いかけているため、ここのところ、夢がずっと関係しています。ヨセフの見た夢は、家族をばらばらにします。
 
「夢についてお話しして下さい」と頼まれたとします。さて、何を話しましょう。と言いつつ、ちょっと悩むかもしれません。「夢」とは、さて何を話せばよいのか。将来の希望を描くことでしょうか。それとも、夜見る夢のことを語ればよいのでしょうか。
 
そう、「夢」にはいくつかの意味があります。現実離れの夢想だとか、はかないものの喩えにも使われますが、大きく2つの違う意味合いの使い方があるかと思います。
 
ひとつは、眠っている時に見る夢です。人間の脳の記憶が、睡眠中の一定期間ごとに働いていることの証拠のようにも見られますが、昔の人はずいぶん神秘的に考えたことでしょう。いまなお、夢占いのようなものが残っていますから、たとえそれが潜在意識の生むものであったとしても、何かしら現実につながる要素を持っている、とも考えられます。
 
もうひとつは、将来の希望です。子どもにも、「あなたの夢は何?」と訊くと、「サッカー選手」とか「お菓子屋さん」とかいう返事が来るのは、将来自分がどういうひとになりたいか、という意味だと分かっているからです。尤も最近は「ユーチューバーになりたい」という今風の世相を反応もするし、中には「ウルトラマン」とか「タンス」とかいう、だんだん分からなくなる答えもあることでしょう。
 
ヨセフはもちろん、睡眠中の夢に人生を動かされました。自ら見た夢を無邪気に話したことにより、兄たちの心を傷つけ、恨まれるようになりました。そのことがきっかけとなり、カナンの地に帰ることができず、エジプトに奴隷として生きるようになったのでした。そこで濡れ衣から投獄されたとき、別に牢に入れられた王の側近たちが見た夢を、ヨセフは解き明かしたのです。ただ、牢を出ることになった人に、このヨセフのことを弁護して伝えてほしいと頼んでおいたのに、すっかり忘れ去られ、ヨセフはさらに不遇な牢生活を続けることになっていたのでした。
 
それから二年。長い二年です。エジプトの王(ファラオ)に神が夢を与えました。もちろん睡眠中の夢です。気味の悪い夢でした。すでにお読みになっていますので、その詳細をここで辿ることは致しません。王は、その夢が何かしら意味をもつものと理解しました。それで不安でたまらなくなり、誰か知恵のある者にその夢の意味を説き明かしてもらおうと考えます。しかし誰に語っても、その夢の意味を確信をもって解き明かすことができる人物には出会えません。
 
この王の様子を知り、給仕役の長がはっと気づきます。二年前に自分が投獄されたとき、自分の見た夢の意味を正確に説き明かして、自分は助かり、もう一人はその見た夢の通りに死罪とされたことがあった、と。王の夢も、もしかするとあの男ならば解き明かすことができるのではないだろうか、と思いついたのです。しかし、ヨセフが罪無き者として牢にいることをどうか知らせてほしいと頼まれていたことを忘れていた自分のことを、明らかにすることにり、処罰が降る可能性もあります。それでこの給仕役の長は、自分の過ちを思い出した、と王にまず切り出します。そして、夢を解く男の存在を王に告げました。ファラオにとっては、その過ちは大したことではありません。直ちにヨセフを呼び出します。そしてこれまでと同じように、自分の見た夢について話をしました。王もよほど気になっていたのでしょう。こんなに何度も話すのは、王として情けないような気もしますが、なにかその夢が大きな出来事を呼ぶものだという確信があったのかもしれません。いえ、恐らくはただの不安ではないか、とも思いますが。
 
ヨセフは、これは神のなす業だと断った上で、王の見た夢の意味を、その夢に登場する牛や一つひとつの情景について、理に適った説明を返します。夢は2つあったのですが、そのどちらも言っていることは同じだ、とヨセフは解き明かし、エジプトに飢饉が起こることを告げました。さらに、その飢饉に備えるためにどうするべきか、までヨセフは進言します。
 
このとき、「今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ」るように提案します。誰かが責任をもってこの政策にあたり、食糧危機を救うように今すぐ動き始めなければ、国の存亡に関わりますぞ、と迫るのです。なんだか、結局ヨセフ自身を重用せよというようにも聞こえますが、果たして王はヨセフの説明に感動し、その役割をすっかりヨセフに任せることになります。
 
今日開かれた聖書の物語は、このような場面です。ヨセフは、またしても他人の見た睡眠中の夢の意味を説き明かしました。もちろん、その通りに飢饉がやってきますし、ヨセフはエジプトの宰相として王の次に君臨することとなり、エジプトと王家を救います。
 
このように、夢見る人ヨセフの物語において、夢は睡眠中の夢であり、それがすべて現実になっていくということの繰り返しが描かれていることは明らかです。通例、この夢は、現実にはなりません。私たちは「夢」の反対語は、と尋ねられた、おそらく「現実」と答えることでしょう。本当は、この対照は相応しくありません。和語の「夢」に対する語は、同じく和語の「現(うつつ)」です。目覚めた状態で目に映る現実世界のことです。私たちは、夢は現とは違うのだ、という前提で普通物事を考えます。しかし、聖書において、この夢は、やがて現となります。
 
神の口から出る言葉、御言葉ともいいますが、それは、真実の言葉だと言われます。どうして真実であるかというと、それは現実となるからです。人間の口から出るものはその場限りの口先だけのものであったり、自分自身では何の実行もしない絵空事であったりします。また、虚偽である場合もあります。しかし、神の言葉はそうではありません。人間の目には、たちまち現実となる、とは限りませんが、世界の創造においても、たとえば神が「光あれ」と言われたら、「光があった」とシンプルに描かれているように、神においては言葉と存在が一致するものと考えられます。人においては言葉と存在は一致するものとはとても断定できませんが、神においては言葉と存在は一致するのです。これを哲学的には「真理」と呼び、聖書でもそのように呼んでいるところもあるし、「真実」と人格的な響きを含ませていることもあります。
 
夢が現となる。これは神の出来事です。ヨセフは、神の出来事を説明していたことになります。神のはたらきを証しする者として立てられていたのであり、あるいはまたそれを預言と称してもよいかと思われます。預言者だからこそ、人に憎まれようが、自分が損をしようが、神から示された神の真実をそのままに伝え示すことしかできなかったのです。
 
ところで、私たちは「夢」の反対に「現実」という語を思い浮かべもしました。しかし国語のテストで「現実」の対義語はと問われたら、答えはひとつです。それは「理想」です。これで漢語どうしの対照が成立します。ところが、この「理想」という言葉の意味は、私たちが先ほど、2つあるとしていた「夢」の、睡眠中に見るものでないもう一つのほう、将来の希望、まさにそのことではないでしょうか。
 
私たちの思う「理想」という考え方は、「現実」ではないという意味で使うでしょう。しかし、ここにある並行関係を、「信」という言葉でつなぐとき、もしかすると、理想の夢も現実になるということを期待できないでしょうか。神において夢は現となっていくのでした。この神に信頼を置くとき、私たちの理想もまた、現実になるという期待をすることはできないかと思うのです。
 
ヨセフは、自分のいる場所とはいえ、いうなれば自分の出自からすれば身に覚えのないような、エジプトの国を救うために夢を解き明かしました。私たちは、一見これが神の計画の何に関係があるのだろうと思うような事態に遭遇します。けれども、神がヨセフをその場に置かせ、イスラエルにとり絶大な影響を与える基盤としたように、神は私たち一人ひとりを取り扱って、いまその場に、かけがえのない役割をもつ存在として置いていると信じます。私たちが懐くようになったその理想も、いつか現実になる、そのように信じて、二年間でも何年間でも、できることを着実にやって生きていく、そのような道を見出して歩むように促しているのではないか、と、このヨセフの運命を見ながら、私は強く思うのです。



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