【メッセージ】共におられることへの気づき

2019年7月21日

(創世記39:1-23)

監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。(創世記39:23)
 
映画「卒業」をご存じとなると、そうとうなベテランの方になるでしょうか。半世紀を経て、もはや古典になってしまいましたが、ベンジャミンがエレインの結婚式に飛び入りして、エレインを連れ去ってバスに揺られるラストシーンはなんだかんだと有名です。ベンジャミンは大学卒業のパーティで再会したミセス・ロビンソンの誘惑を受けたのですが、エレインはその娘だったのです。これだけでは何がなんだか知らない人には分かりませんね。Simon & Garfunkelの名曲 "The Sound of Silence" この映画の途中でしんしんと響きますし、"Mrs. Robinson"は、And here’s to you, Mrs. Robinson, Jesus loves you more than you will know. God bless you, please Mrs. Robinson. Heaven holds a place for those who pray,Hey, hey, hey ...と陽気に歌っています。
 
大学を卒業して、目標をなくしていたベンジャミンは、年上の女性の誘惑にまんまと乗ってしまいました。まさかその女性の娘に恋をするなどとは夢にも思わずに。旧約聖書の箴言では、こうした男の姿が具体的に描かれています。「人妻と密通する者は意志力のない男。身の破滅を求める者。疫病と軽蔑に遭い、恥は決してそそがれない。夫は嫉妬と怒りにかられ/ある日、彼に報復して容赦せずどのような償いをも受け入れず/どれほど贈り物を積んでも受け取りはすまい。」(箴言6:32-35) まさにベンジャミンはここに陥ってしまったのでしょう。もっと生々しい描写は「わたしが家の窓から/格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。通りを過ぎ、女の家の角に来ると/そちらに向かって歩いて行った。日暮れ時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって。」(箴言7:6-9)の続きにありますので、興味が湧いてきたらどうぞこの先をご覧ください。聖書って何の本なんだろう、と驚かれるかもしれません。
 
さて、聖書はヨセフのその後を描きます。その後というのは、ヤコブの息子たちの中でまだ17歳のヨセフが兄たちから妬まれ、殺されようとしたとき、イシュマエル人によってエジプトへ奴隷として連れて行かれてからのことです。
 
奴隷という者にも様々あって、しゃべる家畜と称され肉体労働に明け暮れる奴隷もいれば、才覚を買われ財政管理を任されるような奴隷もいました。市民権がなく、法的に人間としての権利がないことのほかは、様々な生き方がありえたのです。ヨセフは、後者の部類でした。ヨセフはポティファルという侍従長の手によって買われると、才能が豊かにあることが分かってきました。ポティファルは「家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」というように書かれてあります。よほど信用が厚かったのでしょう。
 
ヨセフは全財産を管理できる立場になりました。ところがそこへ、主人ポティファルの妻が、ヨセフにいたずら心を起こします。まだ二十歳にもならないようなウブな若者です。誘惑をしかけました。ところがヨセフはベンジャミンとは違いました。自分は財産もすべて管理を任されているが、「ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、丁寧にその誘いを断ります。ポティファルの妻は毎日ヨセフに言い寄ったとここには記されています。しかしヨセフはその誘いに乗りません。
 
ある時、目撃者がいない情況で、女はヨセフの着物を掴み、命じて誘いました。ヨセフが無理に逃げたので、着ていたものは女の手に残されたままでした。プライドが許せないのかポティファルの妻は、まず家の使いの者たちに、ヘブライ人がいたずらをしようとしたと訴え後で夫のポティファルにも同じように言います。主人はもうかっかときて、訳も聞かずに「ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた」のでした。
 
ところが監獄の中でもヨセフは何か違うと見られたのでしょうか、「監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった」のでした。
 
誠実なヨセフを、見る目をもつ人は必ず見てくれる、という教訓であるかのようですが、実はいまの粗筋では解説は不十分です。ヨセフが見知らぬ土地でひとから好意を持たれ、信用されるようになったとき、表には出ないが、隠れた本当の主体の立場から、大切なことが度々このシーンに漏れ輝いているのでした。
 
読んでいて、違和感を覚えた方もいらしたことでしょう。度々「主」が、言うなれば不必要に物語に干渉してきます。
 
主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。(2)
主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、(3)
主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。(5)
 
しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、(21)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。(23)
 
初めの3つは、エジプトに売られて天涯孤独となり、いわば絶望に包まれたときに、ヨセフのなすことを主が助け導き、それが人の目にうまくいくことだったので気に入られ信用され、さらにその家が主により祝福され、その家や財産が豊かになったという描写の中で、立て続けに告げられています。
 
後の2つは、ポティファルの妻の仕業により濡れ衣を着せられ、投獄されたヨセフが、監守長の目に適い、優遇されるようになったこととその理由について語っています。
 
見た目には、ヨセフの才覚であったとしか言いようがありませんが、聖書記者はこれを主がしたことであると説明しています。そして、誘惑される事件のときには、この主が主体として働いていたことについては、記者は主を一切持ち出しません。ここにひとつの主張があります。神は悪しきことを導くのではなく、その中で助けることにおいて働くのである、と。
 
つまり、悪しきことは人から出ます。神が率先して人を追い込むのではない、ということを伝えているのです。これは神学的にはいろいろ議論すべきことがあるでしょう。しかし、私たちの価値観ではなく、このテキストが何を伝えているか、私たちがこのテキストから何を受け取るかということだけを考えた場合、このように、神は助けるということだけに注目することが先ず必要ではないだろうかと考えます。
 
それから、この情況で、記者はヨセフの心情を一切描いていません。ヤコブの場合は、その迷いや不安が滲み出てくるような描写を度々見せてくれる聖書記者ですが、ヨセフの場合には、まるでヨセフには感情というものがないかのように、淡々と事が進んでいくばかりです。ここでは明らかに、ヨセフは被害者なのです。そもそも兄たちに売られたときもそうでした。あけすけに、兄たちに見た夢を語り反感を買ってもヨセフはその心情を吐露しませんでした。荒れ野で痛めつけられ穴に放り込まれても、商人に拾われてエジプトへ連れられて行っても、ヨセフの心の内がどうであったか、私たちは記事から全く窺い知ることができません。
 
ヨセフは被害者です。このエジプトでの濡れ衣については、偽証の被害者です。奴隷の立場故に反論する権利がないのは当然としても、イスラエルの文化では、そして恐らくエジプトを含む中東でもそうでしょうが、偽証については重い罪が科せられる、重大な犯罪であったものと思われます。もちろん十戒もまだありませんし、あったところでエジプト人には適用できないでしょうが、偽証により投獄されたというのは、理不尽な思いを懐かないはずのない出来事であったに違いありません。
 
ヨセフは落ち込んでいたでしょうか。落ち込まなかったはずはない、とここでは考えてみましょう。確かに、無邪気に人の心を不愉快にさせるような夢の中身をあっけらかんと話すヨセフや、兄たちを警戒ひとつせず単独で荒れ野に向かうヨセフが描かれているのを見ると、ただの天真爛漫でイノセントな幼い者であるかのような印象を与えますし、後にエジプトで兄たちと再会したときも、特別に悪意を懐くようなことがなく、ただ涙するといった反応を見せていることから、通常私だったら当然懐くような恨み辛みや憎しみをここで覚えていた、とするのは行きすぎでしょう。しかし、あまりに無垢で清すぎるヨセフ像というのにも、もうひとつついていけないような気がしませんか。ヨセフは天使でしょうか。
 
もちろん、ヨセフの苦悩を読み取らねばならない、などと言うつもりはありません。聖書はとにかく語っていないのです。それは、聖書の記事に対峙した私たちが、その時置かれた情況によって、またもちろん私たち自身の性格や性質によって、いろいろに受け取られる「あそび」もった物語なのです。文学作品が、こう読まれなければならない、という決まりがないように、聖書も、幅のある読み方がされてもよいのではないかと思います。
 
ヨセフは、理不尽な運命に戸惑いを覚えたかもしれない、と私はいま理解します。それは、若いこの段階においても、すでに、偽りに翻弄された人生でした。特にこのポティファルの妻には完全に偽証によって、この憂き目に遭っているのですから、偽りにより歪められた運命と呼んで差し支えないだろうと思います。しかもここまで、ヨセフその人には偽りはなかったのに、です。
 
ヨセフには偽りがなかった。おそらくこのことが、先に挙げた、「主がヨセフと共におられた」ことの意味なのだろうと思います。主が共におられる人生には、偽りを放つものがないのです。私たちは、いえ私は、そんなことがない者です。この世で職務を全うすることは、何らかの偽りが含まれています。営業上このように言わねばならないが、実のところはそうではない、そんな事例は枚挙に暇がありません。しかし、ヨセフのようになりきれない私たちに対しても、主は共にいる道を、つくりだしてくださいました。
 
ヨセフのように、いえ、ヨセフ以上に苛酷に、偽りに翻弄された生涯を送った、御子イエスを思い浮かべましょう。福音書のすべてが脳裏を駆け抜けて行くだろうと思います。
 
問題は、あのファリサイ派や律法学者、祭司長やサドカイ派たちばかりではありません。もちろんあのユダヤ人たちのせいでもありません。彼らは十分偽りました。しかし、イエスの命懸けの、まさに命を棄てた救いの業に出会ってもなお、私たちは、私は、イエスに偽り続けているということです。私の嘘に、イエスはいまも痛めつけられているのではないか。そのような感覚をもつのは、私だけなのでしょうか。
 
それでも私を信頼して、イエスは私と共にいてくださる。ヨセフは、主が共におられると意識しなかったかもしれません。それでも主が共にいてくださるという例を私たちはここから知ります。苦悩しつつも無垢のようにできたヨセフよりも、さらに完全な形で、イエスは十字架の苦しみを経た上でそれを抜け出て、イノセントに私を愛し導いてくださいました。その姿があるから、いくら落ち込んでも、私はまたそれを見上げて歩き始めることができます。主が共におられると気づく前から、主は共におられたので、主が共におられると気づいたら、私はうれしくてたまらなくなるのです。
 
その喜びは、きっと誰にでも及ぶことができるのだと、私は確信しています。



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