【聖書の基本】地の塩、世の光

2019年7月21日

「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」
 
聖書を読んだことがない人々にも、よく知られている言葉だと思います。注目すべきは「地」「世」で、これらは別のものを指しているわけではないでしょう。「天」であったり「神の国」であったりするものと対照的に、いまここに私たちが置かれている世界、人間が住んでいる場を指しています。
 
もうひとつ注意したいのは、「地の塩になりなさい」「世の光になれますよ」などと言っているのではなくて、「地の塩です」「すでに世の光なのです」という感覚で私たちが受け止めるように促されていることです。
 
とてもとても、私なんか、そんな偉い者じゃぁありませんよ。私たちは時に謙遜ぶりますが、内心さて、どうでしょう。「私は本当にバカですよね」と言ってみたら、相手が「本当にバカです」と真顔で返してきた――これはちょっとムカつくかもしれません。これを教会用語(?)で「謙遜傲慢」と呼びます。「いいえ、そんなことはありませんよ」というふうに持ち上げられたい気持ちがあって、そのためにわざと自分を低く謙遜に演じて見せるという、日本社会では当たり前である、巧みな心理絵図です。
 
イエスは、私たちを「塩だ」「光だ」と、これは間違いなく良い意味で告げているのですから、これを使命として励みにしたいものです。
 
それから、この2つのことがうまりに有名ですので、見落としそうになりますが、山の上にある町という比喩もよく考えてみましょう。私たちは、隠れるわけにはゆかないというのです。すでに光なのですから、その光をカバーで覆ってしまうようなことをせず、その光をもって辺りを照らすのが当たり前です。どんなにザマァないような私でも、光なんですよ。「立派な行い」なんかじゃありません、となどと謙遜ぶらないで、土の中にタラントを隠すような真似はやめて、一歩前へ出てみましょう。
 
カトリック教会が昔から放送している番組「心のともしび」には、有名なキャッチフレーズがあります。
 
暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。
 
心地よいリズムで記憶に残りやすいフレーズですが、励まされますね。そのうえさらに今回は、もうすでに私たちが神からその「あかり」なのだと背中を押されていることにもなるでしょう。
 
ところで、私はしばらく京都に住んでいましたが、京都にはこれらの聖句に関わる建物が2つあることを知っています。
 
まず「世光(せこう)教会」という教会があります。1949年に京都市南部の伏見桃山で始められた教会です。三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』で有名になった榎本保郎牧師により生まれました(はしだのりひこさんにも洗礼を授けたといいます)。昔気質の厳しい牧師で、アシュラム運動の普及に努めました。1977年、アメリカに行く途中で病気が悪化し、客死しました。その娘・榎本てる子さんはその出発のときに激しく叱られたこともあって、父親との関係の修復に苦しみましたが、そうした過程が、17日にご紹介した『愛し、愛される中で』の中で描かれています。一年前に召されたてる子さん、お父さまとの和解もきっと果たしたことでしょう。
 
もうひとつ、「地塩(ちえん)寮」という寮があります。京都大学の構内に建つ古い学生寮ですが、京都大学が運営しているのではありません。京都大学YMCAが管理しています。信徒でなくても入寮できるといいます。ヴォーリズの設計した建物で、百年以上前に建てられました。20年前に、国の登録有形文化財に登録されています。京大生でなくても入寮可能のはずですから、賄い付きの安い寮として、京都における住まいの候補に如何でしょうか。



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