【聖書の基本】山上の説教の始まり

2019年7月14日

宣教活動を始めたイエスは、ガリラヤで伝道を始めました。癒しの業を中心に多くの人の評判を呼びましたが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)というのがその発端です。
 
イエスの許に多くの人が集まるようになったところで、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(5:1)とマタイは記し始めます。このマタイ5:1から7:29まで、なかなかの分量なのですが、ここにマタイは、イエスの教え、ないし語録とも言えるものを集めて記録しました。場面設定としてはあるところで語ったとありますが、これらの教えは随所で語っていたものと思われ、福音書をつくるにあたり、分かりやすくその教えを一箇所に集めたと理解するほうが自然であろうと思われます。
 
「山に登られた」というのがマタイの描き方です。ルカによる福音書にも、このように教えがいくらかまとめられている、似たような構成の箇所がある(ルカ6:17-49)のですが、そちらでは「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」(6:17)「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(6:20)と始まるので、山から下りていたことになります。異邦人にも同じように福音が拡がることを主軸に置きたいルカは水平な伝わり方をイメージさせ、かつての律法の完成としての福音を描こうとしたマタイだと、神から下される権威をイメージさせる山という描き方をしたと受け取ることもできるでしょう。
 
マタイはこの山上の説教に限らず、いくつかの説教集をまとめたコーナーを福音書の随所に集めています。それが5つあるのは、ユダヤの伝統に立ってものを言うマタイらしく、モーセ五書になぞらえているのではないか、とも見られています。
 
このマタイの、教えをまとめた最初の一団ですが、昔は「山上の垂訓」と読んでいました。訓示を垂れるというふうにどうしても聞こえますが、事実上確かにそういうことなのかもしれません。しかしこの「垂訓」という語が堅く、古いせいもあって、近年は「山上の説教」と呼ばれるようになりました。
 
山上とは言っても、高い山を想像するとまた違うかもしれません。恐らくユダヤではそういう高い山から語るという自然条件も習慣もなかったでしょう。一つの「まとめ」である以上、この場面を映像にするのが適切であるかどうかも分かりません。ただ、大勢の人を相手にイエスが語る場面はいくつもあり、そのときに、いったいどのような「声」で語っていたのか、たいそう興味が湧きます。マイクも拡声器もないわけです。大勢に届くイエスの声を具体的に想像したことがありますか。
 
もしかすると、反響を利用していたのではないか。また、多くの人が聴き取りやすいように、発音もスピードも、分かりやすくなされていたのではないかと推測されます。そもそも、何語で語りかけたのかも、実のところ定かではありません。ヘブライ語は庶民にとり一般的でなく、すでに書き言葉であったと言われ、ヘブライ語と近いとはいえペルシア系のアラム語を一般人は話していたというふうによく言われますが、旧約聖書も併せて考えていくと、簡単にそう言えるものかどうか、考察の余地はありそうです。そうするとまた、新約聖書がどうして外国語であるギリシア語で書かれたのか、というところにも関心が向きますね。そうした関心を、ちょっと調べてくるという行動に移してみてください。いまの時代は、ネット検索で数秒で素材が提供されます。偶々見たひとつの考えに決めつけず、いくつか比較しながら見てみるとよいでしょう。同じ意見が多くても、たとえば間違ったソース(資材)をただコピーして多数になった、という場合もありますから、リテラシー能力が問われることになりますけれども。
 
さて、こうしたわけでイエスの有名な言葉が目白押しとなる山上の説教ですが、その始まりは、8つの幸いからでした。9つ目をカウントする人もいますが、形式的には8つでまずは十分です。これらはいずれも「マカリオイ」という語から始まります。日本語もこのリズムで表現してほしいと思いますが、「幸いだ」の一言が最初にぶつけられるのです。
 
これは、詩編の冒頭に基づくと考えられています。
 
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。(詩編1:1-2)
 
いわば詩編全体のテーマともいうべきこの冒頭の詩は、神にある者の幸いが強調されています。イエスの説教の最初も、この幸いの宣言から始まっています。これらの幸いについては、いきなり最初のものが難解とも言われ、原語の知識のほか、当時の文化や時代背景の中で味わわないと、意味の分からないところが多々あるものと思われます。けれども、それに怯む必要はありません。聖書は、いまあなたの前に置かれて、あなたに読まれたがっています。あなたに聞いてほしいと望んでいます。他人に、これはこういう意味だと勝手に決めつけたものを押しつけるのはよくありませんが、自分が神からこのような意味で受け止めて歩んでいけた、というのであれば、それは極めてプライベートなことであり、とてもよいことではないでしょうか。
 
この8つの幸福については、これを黙想や祈りのときに挙げていく人がいます。慌てずに一日一つでもいいと思います。その1つの幸福について思い巡らし、神と向き合い、対話をし、また声をかけられる時をもつことを勧める人はたくさんいます。聖書の言葉は、突き放して眺めるものではなく、どうぞそれを握り締めてください。その言葉が自分を助けます。歩き出す力となってくれます。
 
幸いだ、という宣言を、シャワーのように浴びること。ほんとうに、幸いなことだと思います。



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