国語の救済

2019年7月9日

国語の点数が他教科に比べて低い子がいたとします。私立中学が要求する国語力は非常に高いもので、頭抜けた言語能力をもった子でも満点は無理という世界ですから、ちょっと言葉や漢字に難があると、なかなか点が取れないのは事実です。そうなると他教科にも影響します。問題文の読解が必要になることがあるからです。さらに、これからますます暗記によらず、素材を用いて問題解決をその場で考えたり、意見を表明したりという能力の比重が高まっていくことが明らかですので、このような国語への問題点を抱えている生徒は苦しくなります。
 
対処の仕方は全く個別です。こうすればよいというような特効薬はありません。よく、こうすれば成功すると断言する本がありますが、無理です。誰かはそれで成功したかもしれません。数人がうまくいったかもしれません。しかし人間は機械とは違うので、決まった方法で直せるわけがないのです。
 
そこでそのような子は不安と失望感を抱えてしまいます。国語をどうしたらいいか教師から問いかけられても、自分ではどうしようもません。分からないから悩むのですから。そういうときたとえば私は、次のようなことをその子に提言することにしています。
 
人の話を聞くこと。
 
えてしてそういう子は、授業中落ち着きがなく、後ろを向いたりちょっと誰かに話をもちかけたり、またそうでなくても、聞いているような顔をして聞いていないということがあるものです。何々ページを開けましょうと言ってもひとり違うことをしているような子が、教室にいませんか。
 
それで、人の話を聞くように、という具体的な同の目標を立てるのです。「がんばれ」というような抽象的な指導は、言ったほうは励ましたつもりでも、本人はどうすればよいか全く分からない、厄介な励ましなのです。具体的に、授業をよく聞くこと、そこに的を絞るようにしてみます。特に国語は、言葉の意味が分からないために、聞いていても理解が追いつけず、だからまた興味をなくして聞かなくなっていく、そんな悪循環があると思われるからです。
 
国語のためには、漢字は具体的に子どもに分かりやすい目標となります。しかしその漢字は、字の練習のために覚えるのではありません。日本語において、漢字を覚えるということは、同時に必ず、語彙を増やし、言葉の意味を知ることになります。つまり国語ではまずどうしても、言葉の数を増やさなければなりませんから、漢字と言葉という両輪の構えで、具体的にそこを押さえなければなりません。
 
たぶんまずは、聞く態度から調えなければなりません。人の話を聞くことのできない子が、人が書いてメッセージを伝えようとしている文章を読むことが、できるはずはないのです。
 
国語ではない私の授業では、集中して聞くことを命じます。もちろん、ただ命じてもだめです。私はこう伝えましょう。「君は、国語だって本当はできる。ただ、日ごろ人の話を聞かないようであって、問題文が読めるはずがない。とにかく授業中、聞きなさい。そうすれば、国語は必ず成績が上がる。」
 
言うからには、確信をもってそう語ります。目を見て、こちらは冗談で言っているんじゃないぞ。本当にそう信じているんだからな。実際そう思っていますし、それを彼に伝えます。こうして国語の成績がそこで爆発的に上がったらそれは安手の漫画ですが、少なくとも、授業に対する態度は変わるのではないでしょうか。そして、そういう気持ちが芽生えたならば、漢字に対するやる気も出るでしょう。国語に向かう意欲が現れることが期待できるのです。もちろん、ドラマではありませんから、現実の子はそれからも紆余曲折があるわけですが。
 
さて、お分かりでしょう。私は教育論をかます目的でこれを紹介したのではないということが。人を救う力のあるものは、ことばです。日本聖書協会ではヨハネによる福音書の冒頭はずっと「言」と表現し続けています。人を闇から光へ連れ出すもの、人を生かすもの、そのことばを「聞く」こと、また「語る」こと。音声に限るなどと言っているわけではありません。少しばかりメタファーとして捉えて戴いてよいと思うのですが、私たちが「聞く」こと、時にそれを目指して「語る」ことは、ほんとうに大切なことなのです。
 
こうして、神の言葉を聞くこと、あるいは読むこと(聖書を読むということは、神からの声を聞くことと理解している)へ、私たちはぼうっとしているわけにはゆかないことを、まずは自分への戒めとしたいと思っているところです。



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