【メッセージ】祝福を与える言葉

2019年6月30日

(フィリピ4:10-20)

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)
 
少しデリケート描写から始まります。私の小さいころにはまだ「乞食」(読めますか?)という言葉が活きていました。お決まりの文句でマネをしていたのですから、子どもたちも無邪気というか、時代というか。しかしマンガにも平気で描かれていたのですから、社会とはそういう人のいる場所があったということにもなるでしょうか。「傷痍軍人」という言葉もいまは知られないかもしれません。箱崎の放生会でよく白装束で恵みを乞う人を見たものです。
 
聖書にも、動けないような病人や障害者が幾度か描かれています。その人たちはしばしば、誰かによって運ばれてきます。イエスのところへ運ばれるというのは一回だけでしょうが、日々ある場所まで運ばれていたのだと思われます。何のために? 物乞いをするためです。人通りの多いところにその姿をさらけ出し、憐れみの銭をもらうのです。お金をくれた人に対しては、「神の祝福がありますように」という言葉を返します。
 
現在こうした人が街にいたら、どうしますか。視線を合わせないようにして通りすぎるでしょうか。募金の呼びかけに少しばかり類似点があるかもしれませんね。実は軽犯罪法第1条二十二に「こじきをし、又はこじきをさせた者」が挙げられ、「拘留又は科料に処する」と規定されていますので、法的にできないことになっています。しかし聖書の時代、あるいはユダヤの文化の中においては、大いに通行人は金を恵んだものでした。というのは、弱者に施しを与える者には神から報いがあると考えられていたからです。そのような福祉制度となっていました。なにもお礼を言ってもらいたいために施すのではありませんが、施された方は神の祝福を告げることで互いのバランスが取れていたのだと思われます。
 
パウロはいま、どこからか牢獄の中から、フィリピの教会の信徒へ手紙を書いています。ヨーロッパの区域に初めて足を踏み入れ、宣教もいくらか成果のあった街。ローマ風に改造され栄えていた街ですし、貴重な紫布を商うリディアという女性とその家族が洗礼を受けた(使徒16:14-15)と言いますから、富裕層の信徒がいたのは確かでしょう。
 
そのフィリピの教会に、パウロが捕まえられて牢獄にいるという知らせが伝わったのでしょう。パウロに何か送ってきたことが分かります。「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」と、パウロは素直にそれを受けて喜んでいます。パウロのことを考えてくれてありがとう、という意味であり、パウロの目の前に喜びが花開いたように見えた様子が窺えますが、これはこの後の表現から分かるように、何かをくれたのです。おそらく資金援助であろうと思われます。
 
「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」という言葉は、ちょっと口が滑ったようで、直後に「物欲しさにこう言っているのではありません」と打ち消しました。意地悪な見方かもしれませんが、フィリピの人たちが今まで援助をしようと思っていたとは思いますが、これまでなかなか実際に届けてはくれませんでしたね、というふうに聞こえるからです。いやいや、援助が欲しかったなんてぼやいているのではありませんよ、と直ちに弁明しているように聞こえます。
 
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」とパウロはいまの自分の心境を伝えようとします。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」から、資金が不足していても、それでひどく困っていたわけではないなどと言えば言うほど、あなたがたから援助が届くのが遅かったですねというふうに聞こえなくもありません。
 
しかしそこは聖書として私たちが受け止めている文書です。パウロがたとえ不満や皮肉をこめて書いた文書であっても、その言葉は神により清められ、私たちを生かす言葉として伝わってくることが可能です。そうです、手紙が書かれた時の情況のままに私たちはそれを受け止めなければならないという決まりはありません。文字は人を殺しても、霊が生かすのだという考えもあります。文字だけを受け止めるときとは、違ったものが自分の中に伝わり、自分を変えていくことがある、それが不思議な聖書の言葉です。
 
「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と、あなたは言えますか。バブルがはじけて、とたんに惨めな思いに支配された経験をもつアダルトな方はいませんか。成功して急に金持ちになって、経済観念がおかしくなったということはありませんか。生まれた時からずっと不景気と言われ続ける世の中しか知らないという人もいるでしょうし、ずっと裕福な環境しか知らない人もいるでしょう。その豊かな生活が突如なくなったらどうしようという不安に襲われたりするかもしれないし、いつか宝くじでも当たったら、と幻を見るだけという場合もあるかもしれません。どちらであってもOKよというこの境地は、ちょっと魅力的に思えます。
 
「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と続く言葉を聞くと、その秘訣とやらを知りたいと思いませんか。パウロの使っている言葉からは、この秘訣をパウロが生まれつきもっているというような雰囲気は感じさせません。あることをきっかけにその道に入り、いろいろな経験をした後にこの境地に辿り着いた、というニュアンスが伝わってきます。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」というのは、信仰すれば何でも可能になるという意味ではもちろんありません。自分を強くしてくれる存在がある。やはり神でしょう。その助けがあるからこそ、物があってもなくても大丈夫なんだ。つまり自分は金はあってもなくても大丈夫だ。――いやはや、これは資金援助をしてくれた相手に言うお礼の言葉ではありませんね。失礼な話です。
 
この後、パウロはまずいと思ったのか、フィリピの教会の人たちがこれまで幾度となく助けてくれたことを思い起こして並べ、礼を告げます。ここは一つひとついま追いかけませんが、礼を尽くしていると思います。ただ「贈り物を当てにして言うわけではありません」と、やはりまた次の援助を催促して、いろいろありがとうと言っているのではないよ、とただし書きは入れています。そしてそれに続いて「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と告げる、ここに今日パウロのひとつの心を見たいと思います。
 
フィリピの人たちはこれまでも、そして今回も、パウロを助けてくれた。資金を援助して、実は助かるのだが、その金がなかったらパウロは生きられないということはないのだ、神の助けというのはそのくらいすごいんだ、ということも伝えていると思うのです。だから、自分に献げてくれたことで、あなたがたの徳が積まれ、神から報いの祝福が豊かにあるはずです、と言っていることになります。お気づきでしょう、施しを受けた側が、「祝福がありますように」と言葉を返す構造と似ています。パウロ自身はその金でこそ救われたのではないけれども、パウロに献げたあなたがたの愛は、あなたがたがやがて神の国に迎えられ、大いなる神の祝福の中に招かれることにもつながるものだ、と祝福の言葉を贈っているわけです。
 
贈ってくれたものについて、確かに受け取ったと答え、パウロは最後のメッセージとして、次のように記します。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」、その故に、パウロを思いやるフィリピの教会の人たちは、必ず神から絶大な祝福を与えられます、と施した人に対して最大限の祝福を告げるのです。
 
フィリピの信徒への手紙は最後に祝祷で終わりますが、実質手紙は、この祝福で結ばれました。パウロが牢獄にいることさえ、考えようによっては喜ばしいのだ、などとどこか無理な響きにさえ聞こえかねない言い方で、喜べ、喜べと繰り返すこの手紙でしたが、ここへきて、愛の行いにきっと神の報いがあるから喜べという色に染められる形で、結ばれることとなりました。
 
エフェソの仲間に今生の別れを告げるとき、パウロは自分が手ずから働いたことを言った後、こう付け加えました「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:35) このイエスが言ったという言葉は、福音書などほかでは触れられておらず、この箇所のほかに根拠がないのですが、聖書の中の言葉として有名なもののひとつです。
 
与えるほうが幸いなどと言っても、クリスチャンだっていろいろ受けることがあります。それどころか、私のように、経済的に恵まれないと、もらってばかりで与えることが薄い者もいます。けれども、祝福を与えることは可能です。口先だけという意味にとってほしくはないのですが、出会った人に、祝福の言葉を向けたいものです。だってそれは神の言葉、計り知れない富をもつ栄光の主からもたらされる命の言葉なのです。その力を信じないで、クリスチャンは何を信じることができるのでしょう。



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