届けるための通訳の心得

2019年6月25日

私のパートナーが落ち込んでいました。私に、高校のある行事のことを伝えていなかったことについてです。どうせ私は出席できないだろうということで、欠席の届けを出していたのですが、実は私はその日たまたま仕事が休みで、全くのフリーでした。冷蔵庫の前に案内を張り出してでもあれば私も気づいたかもしれませんが、何も情報がなかったようで、私はそのことを知ることがありませんでした。
 
もうひとつあります。教会の牧師に、高校のまた別の行事についてパートナーが伝えていなかったのです。後からそれを知らせると、牧師が、やはりその日は見に行けたので行きたかった、という返事でした。
 
この二つの出来事が近い時期に重なったことで、落ち込んでいたのです。やっぱり、伝えていなければ相手は知ることがないのだ、何も「来い」とプレッシャーを与えるつもりでなくても、お知らせをしておかないと、相手は来ることを選択もできない、伝えることは大切なことだ、と教えられたというのでした。
 
私たち、どうせ話しても教会に来るわけないものね、という調子で誰かにお知らせしないということはよくあります。わざわざ持ち出すと相手が「またか」と思うかもしれないなどと妙な気遣いをしてしまい、ついに誘わない、伝えないということがままあるものです。でも、とにかくまずは伝えないと始まらないという、当たり前のことがこのことから分かります。立て続けに二つの出来事を起こしてもらったことで、強く教えられたというものでした。
 
教会では、彼女は毎週手話通訳をしています。それは、ろうの方に福音を伝えたいという思いからです。その方は強い信仰をお持ちですが、だからこそ、礼拝の中で聴者と共に、聖霊の臨場感漂う中で、同時に福音を「聞く」ということに、礼拝たるものの意味もあると言えます。語られている福音を伝えたい、その思いだけで、素人の日本語的な手話ではありますが、担当しています。もしふと新たなろう者が教会に来ても、いつでも伝えられるという思いも懐いています。
 
だから、手話通訳というのは、その場で聞いた言葉を同時通訳として手話に置き換える、というようなことではありません。原稿をできる限り前もってもらうようにしています。もちろん、単語や表現について、予め知らないものを調べるというためでもありますが、それだけではありません。そのメッセージが、何を伝えようとしているのかを、自分の中で十分に咀嚼しておくためです。自分を無にして、その説教者が語りたい、伝えたいことは何かだけに耳をすまし、心を傾け、その福音を伝えたい、そして届けたい。だから、その場で聞いて置き換える、というようなことでもないし、多少言い回しを工夫するというような程度のことでもありません。届けたい福音は何か。これが、説教の通訳だと理解しています。
 
もちろん私も同感です。私の場合は手話が下手なので、語られた言葉をできるだけまとめて、伝えたい内容だけを外さないように心がけていますが、彼女の場合は、説教者が使った言葉をできるだけすべてそのままに伝えたいという思いがありますので、必然的に手話が速くなり、なおかつ、一番大切なところを抜けなく強調したいという、なかなかの技術を要する方法をとっています。それだけになおさら、原稿をもらってその内容を理解し、黙想することを大切にしています。
 
先日、外国の方が英語で語り、パラフレーズごとに区切って日本語で通訳するという礼拝説教のビデオを、礼拝の中で観るという機会がありました。幸い、その原稿を一週間前に受け取ることができましたので、彼女はそれを一週間心の中で温めることができました。その日本語を作る方は英語の先生ですが、やはり大変なことだっただろうと思います。同時通訳でなく、予め原稿を受けてのことではありますが、それだけにその日本語を工夫するなどの準備もしなければならず、その点は手話通訳と同じような情況の中にあるのだろうと考えられました。
 
彼女は英語のほうを読むというよりも、とにかく日本語の訳でメッセージを読みました。少し分かりにくいところがありましたが、そのメッセージが伝えようとしている内容は非常によいものであることが分かりました。実はあの「エッファタ」という場面で、まさにろう者が主人公です。この記事を、まさにその当事者であるろう者に伝えるというのは、なかなかデリケートな問題です。「病は癒される」という力強いメッセージは、病気の人がいないところでなら語りやすいものですが、いまそこにいる癌患者を目の前にして語るのはどうでしょうか。いや、信仰を以て語るのだ、というのが正論かもしれませんが、語りにくいのではないでしょうか。「離婚はいけません」などと、離婚した人を目の前に語ることに、ナイーブにならないはずがありません。ろう者を目の前にして、聞こえない者が差別されており、イエスはそれを癒した、ということを安易に話すと、まるで聞こえないままでいる人がイエスにも癒されない、見捨てられた者のように響く可能性があります。こうした問題は、説教者が皆抱え、それぞれに克服している問題ではなかろうかと思います。
 
ビデオを撮っていたその礼拝には、ろう者はいませんでした。もしも、その場に手話通訳者がいてろう者がそれを聞いているという情景を、そのメッセージを語る方が見ていたとしたら、どんなふうに話が変わったのだろうか、ということにも私はたいへん興味があります。が、それはさておき、そのような説教を、彼女は目の前のろう者に伝えることになります。それは、なかなか伝え甲斐のある、深いメッセージ内容であることを、自身で感じていました。ただ、ある部分で、そこをどのように伝えればよいか、悩んでいたといいます。今にして思えば、そのことを私に予め相談しておいてくれたら、私が調べて、いくらかよい方法を提案できたかもしれません。が、ともかく彼女はともかくも日本語訳のままに、なんとかやっていこうと心に決めていました。
 
ある部分というのは、実は画期的な解釈でした。イエスが、出会ったろうあ者に対して、耳に手を入れたり唾を舌につけたりします。この唾を、説教者は、そして通訳者は「手話」だと述べたのです。この唾は手話であった。こんな理解は聞いたことがありません。彼女もこのままに伝えたのではありましたが、しかしそれではさすがにろう者からすれば、「?」という気がしたようでした。もちろん、聴者にしても「?」です。
 
実はそこから、このメッセージはとても感動的な、深い大切なことを伝えにかかるのです。唾は象徴的に手話であるというのは、私たちには分かっていました。私たちは、手話が、手の動きではなくて、表情や口の形、全身を使う言語であり、コミュニケーションであるという理解をしていますから、その理解に基づけば、このメッセージが何を言おうとしているのかは明白です。つまり、音声言語によってはこのろうあ者には伝わらなかったものが、それとは違うコミュニケーション言語としての、一種のボディランゲージによって、イエスが伝えようとしていることを確実に伝え、届いたということです。だから、福音というものは、決まったその言葉によってだけ伝わるというものではなく、相手に届く何か相応しい方法や手段というものがあるのであって、一定の決まり切ったやり方でなく、相手に合わせた届け方というのがある、というメッセージであったのです。聖書の言葉をいくら説明しても伝わらない相手にでも、音楽を通じて福音が届くことがあります。なにげないクリスチャンの行為を見て、福音が響く人もいるでしょう。このろうあ者にとっては、イエスのこの謎の仕草が、言語としての役割を担ったのです。手話は言語である、という「手話言語条例」が日本でもようやく各地で制定され始めました。手話は音声に頼らない言語です。この理解を根底にもちつつ、かの説教者は、語っていたに違いないのであって、そのメッセージの主眼もそこにあったのです。だから、彼の言おうとしていることを誰も知ろうとせず、孤立していたこと、社会的に惨めな状態に置かれていたことを、その説教の中でも十分に説明してきました。いわば聴者の都合によって情報が遮断され、人の交わりから疎外されていたその男の置かれていた情況を、たっぷりと説明していたのでした。
 
イエスは群衆の中から彼だけを連れ出して、あなたは特別な存在だということを伝えます。これを日本語で、イエスは「ご自分のしようとされたことを手話で説明なさいました」と訳しました。これが残念でした。このとき、イエスが手話を使ったというふうに聞こえる訳をしてしまったことで、聞く者は違和感を覚えたはずです。今のは言い間違いかな、と。「この特定の文脈の中で語られた、この唾は、私は一種の手話であると見ています」との説明も加えられましたから、これは確信に満ちた主張であったことが分かります。すると、手話すなわちろう者の使うもの、自分とは関係がない、というふうな空気が流れるようになりかねません。そうじゃない。このメッセージは、福音がなかなか届かなかった者に、その人に相応しい仕方をイエスが様々にとってくれること、おりこうさんな信じ方じゃなくてもいいし、その人の置かれたところに合わせて神が近づいてくださり、伝え、届けてくれるということを言おうとしているはず。「何が起きていて、何がその人の身になされようとしているのかを解き明かし、彼のことを真剣に考えているということを示すことが、イエスにとって大きな関心事であったことは明らかです」と言っているのですから。もしイエスに目を注ぎ、イエスが自分に何をしてくれるかを見つめるならば、イエスは手段を選ばずケアしてくれるのだ、というメッセージでした。人間はいくら自分が伝えようとしても、なかなか相手には伝わらないことがあります。届いてほしいと願い祈りますが、自分の力ではできません。けれどもイエスにはそれができます。私たちもまた、この男とかつては同じでした。また、いまでもまだ聞こえて、言えているかどうかは分かりません。苦しいときがこれから起ころうとも、私がまたイエスのすることを見ようと、聞こうとするならば、イエスはこの惨めな私に相応しいコミュニケーションの方法をとって、届けてくれるのです。
 
翻訳とは、特に礼拝説教の翻訳ないし通訳というのは、言葉の置き換えではなく、説教者が伝えようとしていること、さらに言えば、説教者を通じて、神が何を私たちに語ろうとしているか、伝えようとしているか、そしてどんな出来事をここで起こそうとしているのか、それを深く考え、それを伝える器になること。そのように私たちは考えています。
 
どうして「唾は手話です」などと訳してしまったのか。これは後から私にはすぐ分かりました。英語の原文を見たからです。説教者の原文には「sign language」とありました。通訳ではこれを「手話」としてしまったからです。もちろん、通常の訳語としてはそれで間違ってなどいません。しかし日本語の「手話」は、昔「手まね」と蔑視していた聴者の影響があるのかどうか分かりませんが、手の動きというところに特化した表現となっています。手話は、手だけのものではありません。先ほども申し上げたように、表情や全身を使い表現する言語です。説教者は、唾という「サイン」であると表現していたのです。この唾がその男に分かる、伝えるためのサインとして機能したという言い方を、説教者はしていたはずなのです。実際、手話を言語として見る場合、手と指だけで表すこともその内に含まれますが、伝える要素としては、「自然言語」という考え方があって、いわゆるボディランゲージというようなものがあると理解されています。
 
それから、通訳では、唾をつける行為を、「男に分かる言葉を使って」と訳していました。これも分かりにくい表現です。行為が言葉であるというところで、聞く者は引っかかります。これも原文では、「language」でした。この脈絡で訳すならば「言語」です。手話は言語であるという理解が始まっている中では、これはすんなりつながります。
 
イエスの唾の行為は、サインとして伝えるためのランゲージであった。自然言語であった。だから、男に分かるランゲージで以てイエスは、「私が話す力を取り戻してあげよう」という内容を伝えた、と説教者は言っていたのです。言語としての手話、そしてコミュニケーション言語としてのその機能という点を、原文ではちゃんと伝えていたのに、日本語はそれを伝えることができなかった。私のパートナーは、この日本語だけを見ていたので、自分なりに咀嚼はしたものの、説教者が一番言いたかったと言ってもよいようなそのメッセージの大切なところを、礼拝の最中にはうまく伝えることができなかった、と後悔していました。
 
このろうあ者は疎外されていました。それが、イエスの救いが伝わったときに、他の人とも伝わることが回復されていく物語がここにありました。いまろうの状態に置かれている人も、音声が聞こえないから神の言葉が届かないなどということは全くありません。神は相応しい仕方で言葉を伝え、命をもたらしてくれることが分かったからです。それぞれ一人ひとり、ろう者であれ、聴者であれ、神は見合った形で福音を届けてくれてきたし、これからもそうなのです。
 
それは私たち一人ひとりもきっと同じです。伝えられたから、届けられたから、こうして神とつながっています。誰かの祈りもその力となったことでしょう。もちろん神の愛そのものの絶大な恵みによってのことです。私の手に一冊の聖書を残してくれたあの人がいたから、いまの私があるということを思うと、ただとにかく伝えなければ届かない、ということを改めて強く感じます。これを、行いのない信仰は死んだもの、というふうに戒めるのであれば、全くそれもその通りでしかないということになるでしょう。
 
福音を届ける。その場にいる人に伝わる仕方で伝える。解説にしろ説き明かしにしろ、何らかの翻訳がその間に入ります。もちろん、聖書の日本語訳もまさにその通りです。この「伝える」ことは、確実に「届ける」ことによってこそ完成されます。それは、授業をしたことのある人には体験的に分かるはずです。そしてそのためには、伝える者自身が、伝える内容を十分吟味して、自分のものとしておくことが必要なのです。言うまでもなく、説教者も同じです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります