「いちゃりば・ちょーでー」

2019年6月23日

誕生日を結婚式に選んでくれた妻でしたが、新婚旅行も私の望む沖縄に行くことを叶えてくれました。しかも戦跡を訪ねるという企画。少しは海の良さも味わいましたが、直に資料館を見ることなしには帰れないと思いました。
 
それまでもいろいろ調べてはいたのですが、沖縄に実際に来ると、地元の新聞社の本がたくさん並んでいることに感動しました。が、逆に言えば、本土ではそれらは知られることがないのだという寂しさも覚えました。いまなら、ネットで探せばもっと手軽に触れることができるはずですが、これも考えてみれば、こちらが望まなければ決して見ることも知ることもない世界であるということになってしまいます。
 
6月23日という日付を、私は特別視はしたくないと思っています。8月15日という日付が、統治下を離れたのをいいことに政府により意図的に作られた記念日であるのと同様、23日もまた、沖縄の立場に立脚していない、本土の都合を中心に掲げた記念日であることに、素直に従う気持ちが生まれないからです。(このあたり今回はくどくなるので説明を省きます。ご容赦ください。)
 
けれども、沖縄の方々が、それでも何か弔う思いを寄せる時を求めて23日を大切にするというのであれば、それを否む理由は何もありません。その心だけは無条件に尊重します。
 
琉球処分という嫌な響きの言葉から、皇民化教育を経てのこの沖縄戦。米軍に売られたような時期を過ごして本土復帰と奉祝を装いながら、基地をそのままに置き、住民の権利侵害を蔑ろにし続けている政策や世相。ではだからと言って、その基地にすべて反対するのが正義であるかのようにヤマトの者が叫ぶのが沖縄の人々に寄り添っていることだと思い込んでいるというのも、何も分かってはいない、同じ歴史の繰り返しであるかもしれない、という懸念も懐かざるをえないのが実情です。米軍基地に配属されたアメリカ人を鬼畜のように見ているとすれば、形を変えたあの戦時中の妄想と同じことではないでしょうか。
 
「イチャリバチョーデー」という言葉が、映画「小さな恋のうた」でよい役割を与えられていました。「出会えばきょうだい」というような言葉と言えましょうか。一度出会ってしまえば、そのときから誰でももう兄弟としてのつきあいになるのだという、明るい言葉です。人の信頼というもののない場面では使えない、あたたかな言葉のようにも感じられます。映画では、真っ直ぐな高校生たちの出会いが、基地の金網の向こうとこちらとで起こったことを象徴する言葉となりました。
 
私たちは果たしてそういう出会いをしているのでしょうか。こちらがその気になったとしても、「しょせんヤマトやね」と言われて仕方がないだろうし、それは否めないことであろうかと感じます。イエスが高いところから見下ろすだけのひとであったら、私たちは何の魅力を覚えたことか、そのことを思い起こす必要があります。
 
信仰については、人それぞれのものがあるし、それぞれに神がはたらきかけることを覚えます。どんなに言葉を探しても、言葉を尽くしても、言い切れないものがどこまでも残っていることは、有限な人間の世界のことですから、仕方がない面があります。ただ、なんらかの形で、神と、またイエス・キリストとの「出会い」を経ることなしには、信仰というものはありえないのではないか、ということは、ずっと私の底流に確かにあります。神との間の関係、それは信頼関係とでも言いましょうか、その関係とこの出会いとが、同時であるのかどちらかが先行するのか、それもまた決めることはできかねるほど、それぞれの人にとりナイーブな出来事であることでしょう。人は鈍感ですから、気づかないことも多々ありましょうから。それでも、「いちゃりば・ちょーでー」という考え方は、安心させてくれるし、救いの証しにもなるかもしれません。「きょうだい」という、男性性を思わせる語でよいのかどうかという考えもありましょうが、ともかく聖書の告げることと、決して違わないように思えます。
 
沖縄のことは分かっている、などという思い上がりをもつことがないように。 沖縄に寄り添っていく、などという独りよがりな押しつけで困らせないように。 それでもなお、沖縄から目と心を離さないでいられますように。自分がしでかしたこと、さらに言えば自分の罪だという意識を懐き続けることができ、もし可能であるならば、沖縄の人のほうから、「いちゃりば・ちょーでー」との言葉を受けることを希望することが許されますように。
 
 
※80〜90歳の、沖縄の人たちだけが集まる集会の真ん中で、「命どぅ宝ですよ」「私は沖縄の人々に寄り添います」と演説するようなことは、私にはとてもできない。それが私の感覚です。当事者の前で言えないことを、当事者のいないところでかっこよく言うようなことが、私にはできないということ。私にもし誠実さがあるとすれば、それが精一杯のところです。




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