家族とは何か

2019年6月17日

「家族の涙」という番組で、先週放送されたのは、いじめ自殺のその後の家族を追うものでした。あまりその内ぞつをここで再現するのは控えますが、自殺した中学生の兄もまた後に自殺します。三男だけが残りましたが、壊れたその家族を離れることになります。
 
沖縄でその人は、教会に根付きます。そこが家族になったというのです。そして明るさを取り戻していきます。それから子どもたちに、いじめからのケアを行うような働きをしている場面もカメラに映し出されていました。
 
ここに家族がある、家族が取り戻せた……それ以上のご当人のことについては、ここでは立ち入りません。ただ、私は改めて問わなければなりません。「家族」って、何だろう、と。
 
血のつながりが、家族であると考えられてきました。家族とは、血縁なのでしょうか。しかし明治期あたりの文学者ひとつ見ても、養子になったという例がいくらでもあります。子を授からぬ女は離縁されるといった背景も含めて、当時の離婚率は現代を凌駕していましたから、家族という「縁」は、つながったり切れたり、様々な組合せが自在に行われて築かれていたように見受けられます。
 
そもそも、配偶者は通例血縁関係にはありません。血のつながり、つまり遺伝子の近さが家族であるならば、夫婦は互いに家族ではなくなります。子が産まれて初めて、夫婦は遺伝子のリンクができることになります。
 
かつては「家」の継続が、家族でした。なるほど「家」の「族」であったわけです。だから、「家」が優先であって、血縁はその下にまわってもよかったのでしょう。もちろん実子が理想であったかもしれませんが、家といういわば見えないつながりが最大の価値をもつものに見えていたのだと思われます。遺伝子という科学的な関係を超えた筋道をこそ重視していたというのは、考えてみればものすごい信頼です。
 
ちょうどいま、Eテレの「100分de名著」では「ハイジ」が取り上げられています。ハイジの血縁者テーデとのつながりは、物語にはあまり感じられません。テーデは自分の仕事をすることにしか関心がないように描かれ、姪のハイジは祖父とは結びついているものの、精神的には血のつながりのない二人のおばあさんとの交流が物語の中心にあろうかと思います。また、NHKの連続テレビ小説「なつぞら」でも、なつの血縁としてはなんとか兄に再会できましたが、むしろ血のつながりのない家族とのつながりが強く、またそこに見られる信頼関係が際立っているように見えます。ここにも、家族とは何かを問う題材があるように思うのですが、如何でしょうか。
 
ローマ教皇の系列は、血縁関係がありませんから、その継承も見えないつながりです。そこに霊的なつながりを信頼しているからこそ、教皇の制度は続いてきました。ローマ・カトリックは、見える教会に囚われているなどと評するプロテスタントの人がいますが、私はそんなふうには思いません。信仰の継承が組織的であるだろうことは想像しますし、それだけ構築されたものの緻密さや重みというものは強く感じますが、見えないものへの信頼はただならぬものがあると敬服します。
 
それはともかく、家族とは何かという問いに戻らなければなりません。何故基本的には血縁であると考えられるのか。その背景に、信頼関係を考えてみようかと思っています。他人ではないからこそ、一定の信頼が置ける。だから家族でいられる。気の置けない関係が築け、自分というものをさらけ出すことができるというものです。裸を見られても、トイレにこもっても、放屁しても、家族であればこそのものではないでしょうか。家族でない人の目の前で、歯磨きができるでしょうか。そうした自分を互いに出せる人格的関係というものが、家族と呼ぶもののひとつの条件になっているように思えるのです。
 
家族だから、こういうことはしないだろう。家族だから、こういうことをするだろう。それを暗黙の内に感じ、相手に必要以上の干渉をしない。どういう反応をするものか、分かっているし、自分が分かってもらっているという前提で振る舞う。時に、それは演技となる可能性もあります。以前、「仮面夫婦」という言葉が現れたことがありました。よくテレビドラマの内容からそうした社会現象のようなものが意識されることがあるのですが、互いに自分を隠してさらけ出さない人間関係の中にある家族というものも、当然ありうることでしょう。
 
引きこもりがいま大きな問題のように受け取られていますが、その信頼がもてない状態が続き、だからまたなおさら信頼できないようになっていく、不幸な現象だとも言えます。信頼が置けなかったからこそ、自暴自棄な結末を迎えた例があるとも言えます。それを、ゲームやアニメに原因を見出して安心したい風潮が、世間にはあるような気がします。それが引きこもりを生んだのではないのです。学校なり近所なり、友だちなり家族なりに、(本人のせいだという意味ではなく)信頼関係が結べなかったときに、ゲームやアニメなら信頼できたのです。そこでなんとか救われていたのです。
 
表向き、社会生活を送ることができるタイプの引きこもりもあると思われます。決して信頼する心をもつことなく、生計のためか世間体のためか、それなりに仕事をすることができるという人はたくさんいるものと思われます。しかしその職場などで何かがあったときに、すべての信頼関係が破壊された、あるいは自ら破壊するというケースもあったのは事実です。
 
子どもは生まれてきて、親という絶対的な信頼の相手を見出します。そこで、世界は信頼に値するということを学習します。愛されることで、愛するということを知ると言われています。これを決定的に欠いた境遇で生まれ育った子は、それを取り戻すのにずいぶん苦労すると言われています。子どものように神の国を受け入れなければ神の国へは入れない、とイエスは教えていました。解釈の余地はありますが、真っ直ぐにイエスに向かう子どもは、神の支配を信頼し受け入れるものでした。親を信頼する素地がありますから、神にも同じようであるのでしょう。高い高いをされても落とされる疑いなど全くもたないはずです。が、大人はそうはいきますまい。子どものようでありたいと願います。
 
家族という言葉が、「家」をイメージさせるので、自由な思考を邪魔するものであったかもしれません。英語のfamilyだったらどうでしょうか。「父と母、私はあなたがたを愛します」の単語の最初の文字を拾ったなどといったデマが流れているようですが、それは論外にしても、元来は奴隷や召使いを意味する語であったという由来は、血縁関係に先立ち、血縁のイメージはせいぜいここ数百年のものだというあたりは、どうなのでしょう。マフィアなどの組織もfamilyで通せると思われます。日本の「家」と同じではないにしろ、血族に基づかないものであった理解には、共通なところがあるように思えないでしょうか。
 
教会の語「エクレシア」は、「呼び出されたもの」としての集まりを意味する語として生まれ、「集会」とでも言っておくのがさしあたり原義に近いものと考えられます。神が呼び出して、それを聴いて集められた者、というわけでしょう。良い羊飼いの声を聞いて従う羊もよいイメージです。そのエクレシアにおいては、神が管理者となっていることが理念です。この神の管理のことが「オイコノミア」と称されています。摂理や計画のことですが、経綸などという言葉も古くは用いられました。「オイコス」という「家」なる意味の語が入っているので、神は家を管理するように、教会やキリストの弟子たちを支配しているという構図を思い描いているのではないかと思われます。家族なるものは、この神の支配の中で動かされていくものでありたいものです。
 
教会が、かの三男の方の拠って立つところとなっていました。信頼関係を築き直せたことで、そこを家族と見出せたことは、傍から見るものが勝手に「よかった」などと口に出せるものではありませんが、確かにそれは救いとなったのではないでしょうか。神のエクレシアに居場所が与えられたことは、神のオイコノミアの中にある出来事であったと受け止めさせて戴きたいのですが、高慢でしょうか。
 
すべての見える教会が、そのような家族の出来事を果たしているかどうかは自信がありません。諍いや対立、分裂があって、信頼関係で結ばれていない教会は、残念ながら現にあります。信仰と呼ばれる、神との信頼関係が結ばれており、確立しているのであればよいのですが、牧会者や役員にその信仰が薄かったり、いえ極端に言うと欠けていたり救いすらなかったりすると、信頼の置ける家族でありうることはないでしょう。
 
そしてまた、信頼関係に結ばれた教会であっても、そこへまた、傷ついた人が関係を求めて訪れることが当然ありうるわけで、助けを求めて、救いを求めて、つながりを求めて、勇気を振り絞り自分のポリシーをも破り捨てて、教会を訪ねてきた人が現れたそのとき、果たして居場所を提供できるかどうか、自問しなければならないと思います。受け容れることができるのか。信頼がもてるというサインを示すことができるのかどうか。精一杯の勇気を振り絞って教会にやってくるほどにまで心を開いてくれたその人の信頼に、応えることができるのかどうか。
 
私が、信頼に値するこの世界に現れた日、信頼のおける唯一のパートナーとの契約を果たした日、そして去年はちょうどそれが父の日という、父と子との関係の中でこそ成立する記念の日でしたが、前者2つはつねに同じ今日という日です。その日に、家族とは何か、原理的なところから考えたものを提供しました。さらに私から親へ、祖先へといった関係のことも言わなければこの問題は完結しませんが、すでに長大な文章となりました。これくらいで一度手を引くこととします。「教会は神の家族」と教会学校でも教え、またメッセージでもよく言われることでもありますが、それだけでは余りにも軽く、皮相的に感じます。皆さまがさらに深く考え、いままで気づかなかった、誰かの悲しみや辛さのことが少しでも見えて、感じられてくるとよいと心から願います。もちろん、苦しんでいるご当人の傷が、癒され、救いを覚えることができることが、一番の願いです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります