開け (マルコ7:31-37)

2019年6月16日

「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」(7:31)の訳の通りに地図を辿ると、私たちは意味不明な迷路に陥ります。西欧の諸訳でも混乱があるようですが、よく分からないと思って気を回した訳が、さらに混乱を招いたのかもしれません。この直前で、イスラエルの北のガリラヤよりさらに来たのフェニキアで、ユダヤからみれば外国の領域で、恐らく財産と機知を持ち合わせた女性が、小犬もパン屑はもらうのだと返したことで驚いたイエスでした。そこから大きな町であったティルスやシドンを回った後、ガリラヤ湖のほうに戻ってきたというのでした。それからさらにガリラヤ湖を越えて南のデカポリス地方へと赴いた、と理解して差し支えないと思います。
 
イエスの評判は知れ渡り、ここへ耳が聞こえない男を、人々が連れてきました。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」(7:32)のでした。「舌の回らない」というのは、話せないという意味のやや専門的な語ではないかといいます。それは「舌」という言葉が使われているのではなく、話すのが困難だというような意味です。手を置くことは、神的な力を受けることで、イエスがそのようにしていたというふうに知られていたのでしょう。
 
ここで、耳が聞こえないということで、話すのが困難だという理解に出会いますが、現代の言葉だと前者が「聾(ろう)」後者が「唖(あ)」に当たるでしょうか。聴力が使いづらい場合、自分の発する声を自分でフィードバックできないために、聴者に分かるように発音するというのは一定の訓練が必要になります。自分の声は、外気を通じてだけでなく、体内に振動が伝わることで知覚されることもありますから、同じ「聞こえない」とは言っても、聴覚神経そのものが働いている場合には、体内から自分の声を感じることが可能だと言われています。しかし神経そのものに何か原因があるとなると、そのような音は一切感覚できない場合があります。また、少量の音を感知する「難聴」というケースもあり、その程度も様々です。ここにあるのは、話すこともできなかったように窺えますが、声を発することまで全く不可能であるという意味ではないのではないかと思われます。ろう者も音声を発しますが、訓練されていないと、聴者からすれば何を言っているのか理解しづらいというわけです。音声のみによる情報しかないと、この社会はろう者にとって生きづらいものとなります。このことは、震災などの災害の場合によく取り上げられて解説もされていましたが、日常生活でも、ろう者については見た目でそれと分からないことから、聴者はなかなか気づかないし、想定もしていないように見受けられます。「もしこの場に、音声を感知できない人がいたらどう思うだろうか」という想像力を働かせることが、問われています。危機管理はもちろんですが、日常生活でもたとえば、映画を観るというとき、日本の映画をろう者が殆ど観ない、という理由を、考えてみたことがあるでしょうか。外国の映画はけっこう観るという方も多いのですが。
 
「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」(7:33)というのは、何か呪術的な営みのようにも見えます。真の意図はどうだか分からないと思うのが通例ですが、この箇所について語ったある方は、この唾を「手話」だと理解していると語られました。これは驚きの解釈でした。ただ、そこを二つの意味でもっと深めてくれるとよかったと思いました。一つは、これを手話だと聞いたとき、聴者が、自分とは関係がない事件なのだ、と思いがちなことにストップをかけてほしかったということ。このことは後でまた触れます。もう一つは、手話なら手話でもよいのですが、それであったら大切な点は、この男に伝わる手段をイエスが選び、そして確かに伝わったという点にあるところに注目させてほしかったということです。伝えるということは、相手に伝わらなければならないのですが、イエスは、分かる者は分かれ、理解力のない者は残念だ、というような考え方はとりませんでした。神の栄光を現す方法はいくらもあったのですが、いまこの聾唖の男に対しては、唾という方法が、何をしているのかを伝えるに相応しいものだというところにまで、いわば降りてきてくださって、その男にその思いを届けようとしたのだという切実さがひしひしと、私たちにも伝わってくる、凄い場面であったように感じられてならないのです。
 
それから、これは実際にろう者があのメッセージの会場にいたとしたらどうだろうか、ということも私は考えました。というのは、これを想定していなかったような話であったような気がしたからです。壇上から見下ろした会衆の中に、手話通訳者がいて、それを見て肯いている人がいる。いわばこの箇所の説教の対象者がこのメッセージをライブで聞いている。こうなると、語る者は自分が語ろうとしたことについて、一種のフィードバック機能が働き、何を語るべきなのか、準備した原稿を変更しなければならないことになるかもしれません。もちろん、一層準備したことを本気で語ろうと積極的になり、一層そこに伝えてもらおうという意欲が増すのかもしれません。この辺り、その説教者に尋ねてみたい気がします。本当に目の前にろう者がいたとき、このメッセージはどう語ったか、あるいは変更したのか、あるいはどこかを強調して繰り返すことになったのか。興味深い問題です。
 
場面に戻ります。イエスは耳に指を入れ、唾を男の舌につけました。どうしてもイエスのこの動きに私たちの目は向かいます。しかしここで今回は、たくさんの人が集まってきていた中で、そこから、このろう者が連れ出されたというシーンをよく想像しておきたいと思います。この男を連れてきた人ばかりでなく、多くの見物人が集まっていて、そこからひとり当人が選び出されたというわけです。
 
「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」(7:34)と、アラム語の発音をギリシア表記していますが、これはマルコが幾度かやっていることです。日本語でこのようにカタカナ表記して意味を解説するのとちょうど同じようなものです。アラム語というのは、恐らく当時イエスと弟子たちが通常用いて話していた言葉であろうと言われています。そうなると、どうしてこれがギリシア語で書かれたかということが気になりますね。また、旧約聖書はヘブライ語で殆どが書かれていたということを知っている人は、アラム語とは何のことだというふうにも疑問に思うことでしょう。これについて述べようとするとそれだけで長大な説明になりかねないし、私もうまく説明できません。新約時代には、旧約聖書をユダヤ人たちはすでにギリシア語訳で読むほうが一般的であるほどに、ギリシア語が通用していた社会状況があったということ、また書くということは今のように誰でもできることではなく、大多数の庶民にとり言葉とは話すだけのものであったということなどから、生活する場での話す言葉と、書き残したり書き送ったりする言葉とが一致しないということは、押さえておきたい背景だと言えそうです。マルコは、耳で聞いた響きを直接伝えたかったのかもしれません。
 
それは「開け」という言葉でした。群衆という塊からひとり呼び出された男に対して、イエスが投げかけた言葉が「開け」でした。
 
「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(7:35)といいます。「たちまち」は大元の原文にはなかった可能性が高いそうです。マルコは好んでよく「すぐに」と入れる表現を使いますが、本当に時間的にすぐであったのかどうかは分かりません。時間を伝えるための言葉ではなかったようなのです。ここに訳出された「舌」は本当に「舌」という語が使われています。舌の膠着が解けたというようなふうで、ギリシア語の学習をすると動詞の活用表にきっと登場する「解く」という動詞が使われています。
 
さて、この後は、イエスがキリストであることについては秘密にするようにというマルコによくある結末を迎えます。が、却って言い広められたことが書かれています。すでに長くなりましたので、この後のことには今回触れずに、ここまでで裏メッセージのための準備は区切っておくこととします。
 
当時社会生活を人々が許さなかった、聾唖者。(実は日本でもつい最近までそうだったといえるのですが)まともな人間だとして扱われなかったその男を、イエスは一人の人間として大切に扱ってくれました。イエスの慈しみを覚えてもちろん不思議ではありません。しかし、この場面を読んでいるとき、あなたは誰に共感を覚えましたか。さらに言えば、あなたはどこに描かれていますか。これを考えながら聖書を聞いていたでしょうか。
 
もしかすると、物語を外から眺める存在として、この場面を超越していたのでしょうか。聖書はそんな他人事として読んでおくと、何もその人に力を与えてはくれません。魔法の書ではないのです。聖書を通じて神と出会うのかどうか、神の声を聞き、神に呼びかけられ、神に従うように変えられるのかどうか。客観的に、文学作品を味わうかのように読むものではありません。もしもそうなら、物語と呼ばれているはずです。しかしこれは「福音書」なのです。
 
もしこの聾唖者が自分だと思いながらこの聖書を聞いていたとしたら、イエスと出会うことができる、と私は思います。私は、聞くべき神の声を聞いていなかった。聞こえなかった。適切な言葉を語っていなかった。よいことを語りたいとは思うのですが、どうにもそれが出て来ない。それもそのはず、よい話を聞かず、聞き入れず、自分勝手に自分の考えを頑固にも貫いてきただけだった。
 
たとえば人々が私を教会に導いた。なんとかこの人を救ってほしい、という誰かが連れてきた。あるいは、そのように教会で祈られていたとも考えられます。自分が神を選んだとか、自分が教会を選んできたとか、自分からはそのように見えるかもしれませんが、教会で誰かがあなたのために祈っていた、ということを感じないでしょうか。それは、いま教会のメンバーとなって、新しい人が救われて仲間に加わるように、と祈ったことがある人ならばきっと分かります。あなたのためにも、そのような祈りが教会に満ちていたのです。そして究極的には、神がそう祈っていた。そう、イエスが度々退いて祈っていたと聖書は記しているように、イエスがあなたのために祈っていたはずです。
 
イエスはあなたに何をしたでしょう。あなたに罪がある、などと、耳の痛い話を突きつけて来なかったでしょうか。聖書という本は「聖」という文字に惑わされてはいけません。これは、人間がいかに醜いか、腹の底で汚いことばかり考えているかを、これでもかと暴き出す本です。聖なるものは、神であって、人間のことではありません。読めば読むほど、私たちには耳が痛いのです。イエスは私の耳に指を突っ込みました。
 
それから私の舌が動くようにしました。自分の罪と汚さを泣き叫び、その涙の涸れた頃には、神に何かを言う者となるように、変えてくれました。神に不満をぶつける場合もあったでしょう。しかしまた、ついに降参して、神に従うと告白する舌を与えてくれたとも言えるでしょう。最初から「神を愛します」だなんて、そんなよい子ちゃんでいられたわけではありません。じゃあ神さま、これはどうしてですか、と食らいついた経験がありはしないでしょうか。そしてやがて、神に従う者と変えられていったのではないでしょうか。
 
そうです。イエスは私に、「開け」と言ったのです。私は、「開け」という声を聞いたからこそ、ひねくれて自分勝手なままで自己中心的であった暗い部屋の窓が開かれ、明るい光が射しこみ、新しい風が吹き込んできたのでした。それは私が自分で開いたのではありません。それはどうしてもできませんでした。自分で自分を変えることなど、できやしなかったのです。ただ、イエスの言葉が、私を作りかえました。
 
閉じているおまえの心よ。閉じられたおまえの生き方よ。人との関係を閉じたおまえの日々よ。さあ、開け。今日からおもえはオープンになる。もう飾らなくてよい。嘘をつかなくてよい。自分の罪を悲しみ、それが自分ではどうしようもないものと分かり、イエスが救うその業を、つまり十字架を己れの死の場として受け容れたならば、おまえは変わる。暗い闇が、開かれて明るくなる。
 
イエスの心の内の豊かな思いが、溜息となって私に向けられる。それにより、罪に死んだ私に、命がもたらされる。イエスの言葉によって、開かれたからです。その声が、自分に向けて、届いたならば、私は生きます。生かされます。「開け」という言葉が、リフレインされて、聞こえてくるのならば。



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