そのままでいい

2019年6月15日

以前に比べて、キリスト教会関係でよく耳にするようになったフレーズ。
  「君はそのままでいい」
そのままの君を神は愛している、などとも言います。なんだか垣根を低くして、教会に来やすいような響きにも思え、作戦なのかな、という気もしますけれども、昔(っていつだ?)は「罪、罪」と指摘して、「悔改め」なければならず、それが「赦されて」救われるという狭き門を通らなければ教会には入れないものでしたが(ほんとかな)、一部の厳格なところのほかはなかなか聞かれなくなりました。「罪」と叫べば拒絶されるから言わないんだ、とはっきり意識している方もいるようです。それほどに、教会は、そのメッセージでも、罪を語る機会が激減しているように思います。その単語を口にしても、きわめて抽象的に、どこか他人事のように話で触れるという場合も少なくないようです。
 
捉え方によっては、「そのままで」イエスの許に来る、というようなエピソードがないわけではありません。福音書でたくさんの人が癒されたとき、ただ病気を治してほしくて集まったに過ぎません。イエスの癒しの業は、罪の意識や悔改めの必要性を感じさせないものが殆どです。けれども、当時の社会常識として、病の原因は罪であるということが当然視されていたことを忘れてはなりません。病にあった人々は、すでにその病を負っているだけで、エリート層からは罪の故だと指摘され、本人も自分に罪があるからこの病気になったのだ、と疑わず、その重荷を抱えさせられていたはずです。イエスが癒したとき、もう自他共に十分すぎるほどに、その人は罪の意識の中にいたのであり、そこから解放させる、つまり自由にする、そしてまた救われることをイエスは恵みとして与えた、という構図があるように思われてなりません。
 
自分の罪の問題に向き合うことがなかったために、周りを巻き込んで教会に大きな影響を与えた人がいました。どうやら、キリスト教をひとつの思想として気に入ったようではありましたが、まさかその人が自分の罪と救いというところに気づくことがなかったのだということが、多くの人に分からなかったのでした。自分が可愛くて、自分が正しいという路線しかありませんから、一旦これだと思うと暴走にブレーキがかからなかったものと思われます。罪たるものを経て信仰を与えられたのだったら、どこかでブレーキがかけられたらと思うと残念でなりません。多くの人が迷惑を受けずにも済んだし、その人も救いを体験できたのだろうと思います。でも、今からでもその経験をしてほしいと願っています。
 
そう、罪が購われたとか赦されたとかいうことは確かに聖書の福音であるのですが、罪という沼を潜らず、罪とは何かについて他人事のようなものとしてしか考えたことがないならば、取り返しのつかない誤解をしたままになってしまう虞があるわけです。
 
もちろん、何らかの意味で「君はそのままでいい」という言い方をすることで、救われる魂があることは否定しません。しかしその逆の場合も産み出す言葉であるという点を懸念しているのです。この場合、「そのままで」という言葉がどういう意味であるのか、というところが曖昧であるために、この差異が生じるように思われます。いったい何が「そのままで」いいのであって、何が「そのままで」はいけないのでしょうか。
 
それをここで短くまとめることは不可能です。私の考えもある程度は定まっているのですが、さしあたり問題提起に留めます。ただ、私が「そのままで」というのはどういう意味で肯定するか、という点については、昔私を通じて生まれた賛美の歌詞(最初の節)によって、ひとつの回答を出しておこうかと思います。
 
 
   飾らぬままで
 
 ひとと同じになって 痛みを味わって
 神になおもゆだねた あなたがそこにいた
 
 いつも自分だけが 信じられるすべてと
 思いこんでいたのに それはちがった
 
 ただ 砕かれた心で 弱さをかみしめて
 主の御前に出るがいい 飾らぬままで
 
 
【追伸】問題点を明らかにするために、不快な表現を一部とったかもしれません。誰かをさばいているつもりはなく、誰でもが、自分の罪という問題を通してのみ、救いへ続く道へとつながるのだということを伝えているのであって、ここまでそうでなかった人も、改めてこの問題と向き合って戴けたらという願いをこめてのことでした。これまでどんなことをしていても、どんなに背いていたとしても、またここから新しく始めることができる、というのが聖書のもたらす強みです。私自身もそうですが、いままでまずかったなぁと思うならば、また改めて新しく始めたらいい。その意味でも、ただすべてがそのままでいいよ、というのではなく、出直しましょう、というエールだと受け止めて戴けるでしょうか。



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