中動態、再び

2019年6月5日

以前も『中動態の世界』(國分功一郎)という本を取り上げましたが、ギリシア語にある中動態は、なんだかよく分からない態で、見るかぎりギリシア語講座の本の説明ではピンとこないものでした。今回それについて触れてあった本の著者も同じように感じたようですが、そこですばらしいのは、そのために調べまくり、これを修士論文で書いたということです。
 
著者は日本語教育に携わり、この本でも日本語について、持論の「主語はいらない」という立場から書かれていました。『日本語と西欧語』(金谷武洋・講談社学術文庫)です。学界の異端児らしく、学校教育で当然視されている橋本文法に真っ向から挑んでいるものの、まともに反論すら出て来ないというということです。かつての梅原猛さんや、中島義道さんを思い浮かべるとよいかもしれません。挑戦的な言い放ちが、読み物としても面白くなること請け合いです。
 
さて、著者は日本語に、西欧語の主語・述語という枠組みを当てはめようとすることの愚かさを強調し、日本語は西欧語の主語・述語というような、俯瞰する立場(神の視点)での叙述をしようとはせず、地べたをはいずり回りながら見えるものと出会っていく(虫の視点)ような、主語を必要としない言葉を発展させてきたといいます。
 
それについて論ずる中で、このギリシア語の中動態が、日本語のその感覚と重なるところが大きいのだ、と指摘します。明確に主語を立てないと気が済まない形で叙述するのでなく、日本語でよく言われるように、「する」でなく「なる」働きを示すためのものとして、中動態を理解できるというのです。その意味で、西欧語の源流としてのギリシア語の考え方は、日本語からの説明が可能になる道があるといい、日本語をむしろ鍵として、世界の言語へ向けて貢献ができるのだ、と著者は吠えます。
 
英語から学び始めると、能動態と受動態という対立があることを知りますが、歴史的には当初能動態と中動態の対立があり、その後受動態が生まれたということは間違いないと言います。中間を表すとか、再帰を表すとか、通常の理解では、多くの文法家の説明も、何の意味もなしていないと斬り、著者は自信をもってこの中動態の解釈を前面に出します。
 
日本の英文法学者・細江逸記氏が、中動態は日本語の「る・らる」と基本的に同じだ、と述べたことも紹介し、主語を伴わないかつての西欧語の姿をあぶり出してくる様は、読んでいても十分楽しめます。もちろん、ドイツ語やフランス語をはじめスペイン語の表現も踏まえて比較し、中動態とくれば登場すべきサンスクリット語も持ち出すなど、縦横無尽に著者は、主語を必要としない日本語のあり方を傍証するものは何でも持ち出します。結局中動相(中動態のこと)は、印欧語における無主語文であ、と著者は言います。主語なるものが言語には普遍的に存在するという思い込みを撃ち破るための、重要な議論でした。
 
本書は2004年に講談社選書メチエとして刊行されたものを原本としており、それがこの5月に、講談社学術文庫として手に取りやすい形になりました。私はこれで本書に触れました。
 
この言語なるものは、言うまでもなく前世紀の哲学の最重要と目された主役であると言ってもよいほどで、言語哲学がずいぶんもてはやされましたが、考えてみればその言語哲学と呼ばれたものは、たいてい西欧語を基準にして語るものでした。本当にそれで良かったのでしょうか。十分だったと言えるでしょうか。もしかするとそれとは趣を異とする日本語の世界観というのがあって、その構造や成り立ちから考えると、全く違う哲学的見解が成立するということはないのでしょうか。こうなるとこの本の著者と足並みを揃えてしまいそうですが、私は言語だけでなく哲学や思想すべてにわたり、西欧語ばかりによる言語分析では扱えなかったところ、見落としていたものを、もっと探しだしてこれからの世界を引っ張っていけるのではないか、とも思うのです。本書でも、西田幾多郎の価値を捉え直す一幕がありましたが、まさにそうです。
 
こうしてくると、私が無謀にも、西洋思想を破壊したいという目論見で始めた哲学が、神の前に砕かれて神と出会ったという経緯も、もしかすると別の意味で新たに何か少しでも役立てられる道があったのではないか、という気がして、少しわくわくしてきました。
 
トランプ政権によるアメリカの政治的外交的な選択と、英語のもつ神の視点との関連について考察する章もあります。英語が最もこの主語・述語からくるこのような見方へと暴走した言語であるという見解であるため、アメリカのものの見方というところに、特別なものを感じているようです。言語学のことだけでなく息抜きをさせる目的もあったかと思いますが、そこには実は、著者のいたカナダ(フランス語)での酷たらしい事件の詳細が語られているのでした。読んでいて苦しくなるよう詳述なのですが、その時にカナダ人の対応が、許しと癒しに満ちていたということで、それを言語的世界観の傍証として載せたのは間違いないのですが、私はそれ以上に、このカナダの人々の対応に、確かに感動していました。



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