慰めの言葉

2019年6月3日

突然の災い。心の準備もなく、いきなり思わぬ仕打ちに遭って、私たちは戸惑います。いえ、茫然自失とでも言うべきでしょうか。あのヨブのように、一週間何もできなくなっても当然です。震災や豪雨災害で、私たちはそうした人々を見てきました。実際それに遭遇した方もこれをお読み下さる中にいらっしゃいます。事故や犯罪被害もまた、こうした事態に陥らせるものでしょう。あるいはまた、重大な疾病の宣告も、厳しいものがあるでしょう。
 
ヨブの友だちではありませんが、私たちは時に、身近な人や知り合いに、そのような不幸に見舞われ、鬱のようになった方が現れることがあります。教会では、祈りのためにそのような知らせがいち早く伝えられる、という場合もあります。そのような時、どう反応すればよいでしょうか。
 
それは事実、SNSの空間の中でもよく起こることです。友達とかフォロワーとかいって、つながりの中にある人が突然害を被る。たとえば突然重篤な疾患が判明したとしましょう。何か声をかけたいと思うし、ネットではそれが比較的しやすい環境にあります。出向かなくても、気持ちを届けることはすぐにできるからです。
 
少し前から私は、西村ユミさんやその関係で鷲田清一さんの本に少し親しみ、「臨床」という場におけるあり方や癒しについて考えることをしておりました。母を送る経験の中で、自分のしてきたことはどちらかというと適切だったのだということを教えられて慰められました。
 
ヨブ記では、友だち思いが集まって、ヨブをなんとか慰めようとします。それはいつしか、ヨブを追い詰めるような言葉になっていきました。神学的に考えるといろいろ解釈があるのでしょうけれど、この臨床の視点から捉え直すと、あれはやはり拙い対応だったと思います。確かに、責めるような言葉も多いのですが、多分に慰めの言葉をヨブにかけようとしていました。神への信仰をもちだして平安を図ることもしていたと思います。ですから、私たちが善かれと思って投げかける言葉も、ヨブの友だちのように、ヨブを傷つけるように働くばかりという様子を認識しなければならないと考えます。
 
もちろん悪気はないのです。善かれと思ってのことなのです。でも、それは無責任でもあり、よくないことではないかと思う、そんな言葉があります。ここでは、重い病気に陥った人を前にしての言葉にさしあたり限定して、口に出しがちな言葉について反省してみることにします。
 
「必ず治りますよ」 根拠のない励ましです。確かに、その気持ち自体を受け止めるとありがたい気もします。こう言われてうれしいと思うこともあるし、励まされることもあるかもしれません。しかし、根拠がないだけに、見通しを誤ったら、後でよけいにがっかりするということも考えられます。
 
「私もそんなことがありました」 共感の言葉ではあります。でも、その人の場合と自分の場合とが同じだという保証はどこにもありません。何も分からず外部からただ励ましているのではないということは分かりますが、だからといって、いまの自分の困難が解決されることにはなりません。
 
「誰それはこうして治りました」 これもまた、他人事です。まるで、誰それはこうして事業に成功して大もうけしました、という宣伝であるかのように、いまの自分の苦しみとは無関係に、その人はよかったね、程度の響きでしか伝わらない可能性が大きいような気がしてなりません。
 
「このようにしなさい、きっと治る」 こうして迫られるのが一番厄介です。医療関係者でもなく、素人判断で、しかもこちらの病状を診断したこともないのに、近所のおばあさん(失礼)が自分の経験だけから、必ずこうしろと迫るようなことをされても、迷惑でしかないでしょう。それを無視していて治らなかったら、やっぱり、などとまた追い打ちがかかります。
 
「信仰がないですね」 同じクリスチャンへ向けてでしょうが、これはもう論外。冗談でも言うことではないはず。

「祈ります」 優しいし、それが社交辞令でないのであれば、まあそれに尽きるのではありますが、病気と信仰とを結びつけることは、いかにも聖書的であるかのようで、却って危険である可能性が強いものです。医者を軽蔑し、信仰があればと考えると、今度はやがて、治らなかったのは信仰がないせいだ、と言うようになります。これこそが、福音書が最も嫌っていた考え方だと見ることもできるでしょう。
 
くれぐれも、私は揶揄しているのではないし、非難しているのでもありません。私が当事者だったら、これは受け止めづらいと感じるということであり、それはあの「臨床」のレポートからしても、多くの患者に不適切な声かけであると指摘されているような例だということです。声をかけた人の気持ちを汲んであげられる余裕のあるときにはまだよいのですが、それすらないときには、むしろ重荷にしかならないという場合があるということです。
 
「寄り添っていますよ」 これも、果たしてどうなのか。寄り添えることがほんとうにできますか。現場のナースが四六時中傍にいて手を施し心を配って対処しても何もできないという実感しかもてない場合が多いのに、そんなに気軽に、自分のほうでは寄り添っているつもりになっているなどと言うこと、あつかましくはないでしょうか。
 
「臨床」では、ただ患者の言うことに耳を傾け、それを繰り返し同意を示すというくらいしかない、そのように「聴く」こととそれによって自分もまた変えられていくという経験をもつこと、そのような出会いと交わりの中に次のステップを探すのが精一杯だというような考えが紹介されていました。もちろん、それがすべてではないかもしれませんが、多くの病院などでの実践の中で、いま見出されているひとつの有効な道であることは確かのようです。それはまた、ホスピス病棟でもずっと試みられ、また営まれており、そしていまなお模索している道であるのだろうと思います。
 
しかしその他、こんな声もあります。災害に遭った人の話です。ボランティアに慰められても素直に受け容れられないことが多く、そういう自分をまたさらに悲しく思うといった日々がある中で、生活再建のためにこういう手続きが必要だとか、現実にこのようにしたら物が確保できるだろうとか、実生活で役立つ知識や知恵を教えてくれたときには、ほんとうに助かったと思った、というのです。こういう詐欺には気をつけて、という助言もまた。
 
そう、人間が思いつく精神的な慰めは、ある意味で無用なのであって、それよりも気が動転して確かめることのできない、実務的なアドバイスのほうが役立つということはある得るような気がします。現実に陥った情況をすぐに変えることはできないけれど、そこから気をつけなければならないこと、再び歩き始めるために備えられた方法は、教えてもらってありがたいと思うというのです。
 
その病気は傍からはどうにもできないが、生活の中でこういう不便や危険性が考えられる、というアドバイスは、次善の策ではあっても、患者のこれからにとって、被災者のこれからにとって、役立つ可能性があります。ヨブの友人たちは、ヨブの不幸の背景についてはいくらでも論じましたが、これからの生活をどうしていこうかという話題は、とんと示すことができませんでした。あらゆる幸も不幸も神からくる、という神学ならばそれもありでしょうが、私たち肉の心のある人間としては、できないことについて気休めを告げるのではなくて、地に足のついた形で、気をつけることくらいなら、いくらか話すことはできるかもしれません。
 
しかしもちろん、十把一絡げに、こうすればよいというような定式があるわけではありません。あくまでも目の前のその人の状態を観察し、そこから聴き、受け止めようとしながら当たっていくしかありません。常にその人から「聴く」という姿勢は大切でしょう。それでも、下手にアドバイスをして不快にさせたり、失望させたりする場合もあります。マニュアルに従う必要はありません。まして、自分が慰めることができたんだなどという、自己満足のためにそれをすることについてはよくよく点検しなければなりません。自分の正しさを証明するために、自分の投げかける優しい言葉に自ら酔うという心が人間にはあるものです。意地悪な見方なのかもしれませんし、ひねくれていると非難されても構いません。人間の素直な良心を愚弄するのか、と言われることも承知しています。それでも、私の中には、そういう「罪」があること、少なくともあったことを、私は確実に知っています。だからこそ、聖書に救われたのです。
 
神に、自分の考えを押しつけるようなことを、人間はついやらかします。神を拝しているようで、自分の願望を神に実現させようとしている勘違いを、人間はいくらでもしてしまいます。戦争や殺人すら、神の思し召しだと声を放つことさえできるのです。そのような過ちを省みて、まず神の声を聴くところから、信頼や誠実が始まるのであって、そこから神との関係が結ばれていくのが分かるのです。重篤な病気や災害、事件に遭遇した渦中の人に、こちらの思いつきや感情を押しつけるようなこと、こちらの感情を満足させるために言葉をぶつけるようなことが多々あると弁える必要があります。
 
と、ちょうど図書館で借りていた『ある日突然、慢性疲労症候群になりました。』(ゆらり著・合同出版・4月発行)を読みました。可愛いキャラのくまさんが、ずっと苦しんでいる様子を描き、この症候群のことを知ってもらいたいという切なる願いからできた本です。マンガで表現されています。その本の最後に、「やすらぐお言葉たち」と「残念なお言葉たち」が並列されていました。かけられてうれしい言葉と、そうでない言葉とが並べられているのですが、はからずも、私がここで取り上げた話題そのものであり、また私の捉え方が決してただの思い込みではないということを示すためにも、そして何よりも、理解されなくて苦しい思いをしている方々について知って戴くためにも、著作権を侵す問題があるかと懸念はしますが、むしろこの本を読んで戴きたいという願いをこめて、少しだけ画像でお伝えすることにしました。なかなか理解されない辛さと症状の苦しみとを、著者の体験の中で、またいまだその渦中にいるという状態で、描かれたマンガです。よろしかったらお手にとってみてください。



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