割礼

2019年6月2日

ガラテヤ書の具体的なテーマは割礼にあったと言っても過言ではありません。パウロが律法に基づかない救いの福音を伝えたはずのガラテヤの人々に、後からまた、やっぱり律法は必要なんだよと説き伏せに来た者がいて、ガラテヤの人々がパウロの伝えたことからまたユダヤ教に戻っていくという実情に激怒したパウロが吠えているという感じです。その律法の問題というのが、ほぼ割礼に集約されていたようなのですが、さて、そもそも割礼とは何です?
 
父祖アブラハムのときに、神が掟として命じたのが割礼でした。聖書で最初に登場するのが創世記17章です。
 
神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。(創世記17:9-11)
 
以後、センシティブな内容が含まれています。そこそこ生々しい記述が続きますので、不快を覚える方はお読みにならないでください。但し、聖書が何を告げているかを理解するために、知っておかなければならないことだとは思いますので、できれば向き合って戴きたい。
 
割礼とは「切り取る」というような表現ですが、男性性器の亀頭部分を覆う包皮を切開して切り取ることをいいます。亀頭が剥き出しになる状態がふだんから続くということになります。古代の場合、施術は石の道具によりなされたと記録されており(出エジプト4:25,ヨシュア5:2)、それなりの切れ味があったことは間違いありませんが、衛生的にも技術的にも果たして万全であったかというと、分からないものです。
 
ヤコブの息子たちが、妹ディナがヒビ人シケムにより辱められたとき激しく怒り、ディナとの結婚を申し出てきたシケムたちに、割礼を受けていない男に妹はやれないと言い、町中の男が割礼を受けることを条件づけました(創世記34章)。男たちは皆割礼を受けましたが、三日目に傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの息子たちが町を遅い、男たちをことごとく殺した、そういう記事があります。
 
どうしてこのような掟があったのでしょう。もちろん、神が命じたから、というのが最も信仰深い解答ではありましょう。生まれて8日目に割礼を受けるという男児の規定が律法に定められています。これをしないと、民に加えてもらえないというほど重大な規定であり、イエスも割礼を受け、その日にイエスと名づけられています(ルカ2:21)。が、何かしら理由めいたものを研究する人はもちろん多々あります。神との間の契約のしるしとしての割礼は、それはそれでよいとしても、何の意味もなくこれほどの危険なことが求められるようには思えません。
 
エジプト人やエチオピア人が割礼を古来行っていたという記事が、紀元前5世紀のヘロドトスの記述にあるそうですが、ギリシア人やローマ人の間にはこの習慣はありませんでした。中東ではその後、イスラム教で、コーランでの規定はないものの、慣行として定着していると言われます。ということは、非常に暑い気候、あるいは乾燥する地域で、割礼が行われていた、あるいは何か必要だった、という推定がでてきます。そこで、これを衛生的な側面から理解する場合があります。
 
メカニズムはここでは詳述しませんが、性病感染の面から、また菌を溜め込むリスクを減らす構造から、確かに衛生的なメリットはあるようです。それが、熱帯や乾燥帯の気候においては甚だ効果があったということは想像に難くありません。
 
近年では、HIVに関して予防効果があるという意見もありますが、安易に決めることはできないようです。
 
現代でも、これを習慣として実施している国は少なからずあり、衛生的な効果の期待される地域や、宗教的な理由が施されている地域でそうしている場合が多いように見えます。しかしまた、女性に対しても、このようなことが行われているという報告もあり、それはまた別の意味で問題ではないかと考えられています。
 
もちろん、構造上男性の場合と全く同じではないのですが、おもにアフリカ中北部で行われているといい、相対的に女性を抑えつける虐待的な扱いとしか現在考えられていないようです。宗教的な意味はほとんど考えられていないように見えます。
 
新約聖書において、割礼は、パウロとパウロの後継者が話題に上らせるほかは、さしたる議論は起こりません。福音書では、ルカの初めにバプテスマのヨハネとイエスの誕生にまつわる場面と、安息日にも割礼を行うという安息日問題についてヨハネが触れている箇所に、割礼という語が出てくるだけです。このことから、割礼について検討する必要があるのは、専らパウロの考えだけであると言ってもおかしくはないように見受けられます。逆に言えば、非パウロ派は割礼がどうのこうのという思想がなく、それを当然のものとして受け止めていた可能性が考えられます。すると、パウロとの対立ということが想定されるわけですが、こうなるとまた新約聖書を大きく動かす問題となっていくことになるでしょう。
 
このガラテヤ書における割礼の議論は、教会における割礼論争として注目すべきものとされており、聖書の中に展開されている、初の神学論争だと見ることもできるでしょう。そしてそれはただの過去の遺物となっただけではなく、今も続いている出来事として、私たちがどう考えるか問われているのかもしれません。
 
なお、同じパウロが、現状保持という脈絡で「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」(コリント一7:19)と述べています。ガラテヤ書では「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)と言ったり、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:15)と、同じ言い回しを使っています。これを受けて、「洗礼の有無は問題ではなく、……」という表現で論じられることが時々あります。救いについて、洗礼のような、何らかの形式や儀式が必要だというタイプの考えに対して、事情で洗礼を受けられなかった人が救われないというような考え方をするべきでない、という立場の人々が、そのように言うのです。こうして、パウロに従えば、大切なことは「神の掟を守ること」「愛の実践を伴う信仰」「新しく創造されること」であるということになります。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります