御霊

2019年5月26日

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
(ガラテヤ5:22-23/新改訳2017)

 
文語訳・口語訳に続いて元の新改訳、そして新しい新改訳2017では、ここに「御霊」という語が見えます。しかし他の聖書はただ「霊」となっています。「御霊」というのは、神の霊であるという意味です。手話でも、「神+霊」という表現が可能です。しかし、これらは原語では何の違いもありません。一般的に霊であるという時と、これは神の霊をのみ指しているという時とで、区別をしているものと思われます。
 
面白いのは、新共同訳だけが、後者の神の霊を表すときに、"霊"という表し方をしたことです。この「霊」はただの霊じゃなくて、「神の霊」のことですよ、というサインなのだそうです。本文が記号混じりで違和感を覚える人もいたでしょうが、最も大きな問題は、その「霊」が「神の霊」であるというのは訳者の解釈なのですから、どちらを表していると理解するほうが適切であるか、いろいろ意見が異なるであろう場合にも、訳者が、「これは神の霊のことです」と押しつけてしまっていることでした。
 
そのためか、新共同訳の後を継ぐ形でつくられた聖書協会共同訳は、この" "表記を止めました。あとは読者がそれぞれに受け止めればよいということになります。
 
但し、特に新約聖書では、「清い」という形容詞をつけて2語による「聖霊」という使われ方があるということです。これはやはり「聖霊」と訳されます。ですから、「聖霊」という訳と、「霊」という訳とでは、確かに原語の表現が異なる、と考えてよいかと思います。旧約聖書でも、このような使われ方が3箇所あります。
 
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。(詩編51:13)
 
しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。
主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
そのとき、主の民は思い起こした
昔の日々を、モーセを。
どこにおられるのか
その群れを飼う者を海から導き出された方は。
どこにおられるのか
聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。(イザヤ63:10,11)
 
これらは、「清い」の語が付いているということになります。
 
「霊」はヘブル語ではルーアハというような音の語で表されますが、この語はまた、「息」「風」をも表し、聖書で普通の「息」や「風」という意味で訳されている箇所は、この語が使われています。それが時折「霊」と訳されるわけです。エゼキエルの見た幻で、枯れた骨が生き返るところでは、骨たちがつながりそこに「息」が入って生き返ったと書かれています。アダムとエバが木の実を食べた後主が来るときに吹いていた「風」もルーアハです。流れ動く空気がこの語の表すところでしょうが、神の業もまたそのように現れるという捉え方ができようかと思います。
 
「霊」は新約聖書のギリシア語では「プネウマ」というような語ですが、「息」や「風」として訳される機会はずいぶんと減ります。
 
その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。(テサロニケ二2:8)
 
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネ3:8)
 
そして新約聖書の本領はやはり「聖霊」です。93回表現されていると言われます。これはある意味で神なるお方である、少なくともそれと別物だとはされないということで、父なる神・子なるイエス・聖霊という位格は異なるように見えても、実はひとつの神であるということから、「三位一体」(さんみいったい)という神学用語が生まれました。また、これらを別々なものとしてしまう考えは、キリスト教の歴史の中で異端として本筋の教会から外されていったのでした。その歴史はまたいずれどこかでお伝えできるかもしれません。
 
しかしこの三位一体という考え方は、人間の理性が普通に考えても理解できないことです。そこがまたよいのだという見方もありますが、やはり考えにくいということで、いわゆる異端のグループはそういう神学を築いていったのでしょう。現代でも、エホバの証人(機関誌がものみの塔・集会所が王国会館)では、聖書の中に「三位一体」という語がないことから、聖書信仰からすると間違っている、と断じていますが、そのように攻撃されても怯まないように、また惑わされないように、聖書を学び、また体験していくようにしてくださいね。
 
さて、最後に、「御霊」という言葉について触れることにします。今回「御霊」という語が使われている聖書箇所を、新共同訳などを外して最初に掲げたのですが、日本聖書協会では、「御霊」という訳を、新共同訳以降使わなくなりました。このことについて、ちょうど5月20日のFEBC(キリスト教放送局)の「主に向かって歌おう」という番組(担当は飯靖子・いいせいこさん)が触れていましたのでご紹介します。(実は翌週も別の讃美歌で同じ点を指摘している)
 
讃美歌で、聖霊の讃美歌「御霊よくだりて」が、いまの讃美歌21では「聖霊よくだりて」と改められているというのです。その他かつての歌詞で「御霊」とあったのが、「聖霊」や「霊」と書き換えられているのだといいます。新共同訳聖書に合わせて、ということのほかに、番組ではこれ以上はこの件については解説されませんでしたが、恐らくこれは、「御霊」という言葉を避けるようにする方針に基づくものであろうかと思われます。というのは、日本語でいう「みたま」とは、神道を中心として「祖先の霊」を指す言葉であり、場合によっては同じ漢字を「ごりょう」と読んで、怨念をもった霊を表すようにもなります。こうした神道関係の用語、あるいは天皇関係の言葉が、身分の高い方についての表現のすべてであった時代、聖書の訳語もそれを当てられていたと考えられます。口語訳もそうですが、元の讃美歌も、戦後の混乱期に急いで編集されましたので、こうした言葉を使って表すしかなかったのかもしれません。短い語でよくまとめられ訳された、いわゆる讃美歌ですが、さて、次の言葉の、いくつが分かりますか。
 
おおまえ・みくら・みざ・みいつ・みとの・みかど・しらす(動詞)
 
これらは天皇やそうしたやむごとなき方にまつわる語と見られますが、神のすばらしさを表すのに、天皇関係の言葉を流用し続けるのはどうか、そうした意見は当然以前からありました。聞き慣れた言葉、言い慣れた言葉を変更するというのは、人々の抵抗や戸惑いもありますし、なかなかピンとこないという側面もあろうかとは思います。聖書は神の言葉であり永遠の救いの言葉である、と告白する身でありながら、日本語をひょいひょい変えてよいのか、という思いの方もいるかもしれません。しかしまた、生ける神たる「ことば」としてのそれと、たんなる文字としてのそれとを同一視することについても反省しなければならないでしょうし、文字なる言葉を偶像視してしまったのが、いわばファリサイ派や律法学者たちであった、と考えることも可能です。私はむしろそうだとはっきり考えています。そして、現代でも、聖書をすら偶像視することや、二千年前にイエスを攻撃した人々のやっていたことが、それと気づかず自らやっている人々がいるかもしれない、また自分もそうやっていないとも限らない、そのような眼差しをもちつつ、日々教えられ、知恵と力とを受けつつ、歩みたいと願う者です。



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