『愛は静けさの中に』(Children of a Lesser God)

2019年4月30日

映画ファンの方々にはもう有名すぎて、何をいまさら、と言われそうな気がします。マーリー・マトリンは、アカデミー賞とゴールデングロープ賞で主演女優賞を獲得した1986年アメリカ映画の名作です。手話を教えてもらってから後のことですが、この映画が気になっていました。手話が全編に流れ、またろう者と聴者とのコミュニケーションがテーマであると聞いたからです。DVDが販売されていたのですが、もう少し安くならないかなぁと見守っていたところ、手頃な価格になったのを見て、購入しました。レンタル落ちですが、何も悪いところはありませんでした。
 
ネタバレに気をつけながら綴りますが、田舎のろう学校に赴任したジェームズは、そこで働くサラという美しい女性を見かけます。サラはそのろう学校で育った生まれつきのろう者でした。やがて彼女と恋愛関係になるのですが、それぞれの心の中でなにかつながらないものを抱えながら、傷つけ合うこともあり……という流れの物語です。
 
ASL(アメリカ手話)が飛び交いながら、ジェームズが読み取って口に出すところは字幕にも出てくるものの、そうでないところは字幕にもならず、けっこう緊張感を保って見ていないとストーリー把握すら怪しくなります。
 
ろう者故に傷ついた過去をもつサラでしたが、学校で発声を促す教育に携わるジェームズは、声を発することや、自分をもっと開いていくことに反発するサラを愛するようになります。プールで告白してジェームズが飛び込み、抱き合うシーンが有名だそうですが、その水の中というのがろう者の世界を象徴していることにぜひ気づいて戴きたいと思います。互いの世界がひとつになることを二人は望みますが、どうすれば相手の世界に入ることができるのか、つながることができるのか、なかなか見出せません。しかしそのプールのシーンが、最初に二人の心の交わりを表しているのは間違いないと思います。
 
そうすると、他人と心が結びつくという意味では、ろう者と聴者だからという設定がすべてではないことに気づかされます。そもそも恋愛という、人格全体のぶつかり合いにおいては、相手の心に入り、入られという関係の中で、互いにひとつになっていく過程が必要だとは言えないでしょうか。それを描いているからこそ、見る人の心を揺さぶるのではないか、と。
 
他方、ろう者がどのように見られていたかという点でも、見るべきところが多かったような気がします。映画の情景はいまから30年余り前のアメリカ社会の様子だと思われますが、ろう者はかなり社会に受け容れられており、聴者との間にとりたてて壁があるようには感じられませんでした。サラが仕事をすると言えば、マニキュアを塗る仕事でしょうか、普通に始めていました。日本映画だったら、その仕事に就くためにどれだけ苦労があったか、というあたりから描かないといけないでしょうが、ごく自然に働き始めています。ヒッチハイクも難なく行うし、聴者のパーティでもなんでもストーリーの流れの中で普通に参加しているなど、少なくとも、ろう者が社会の中でとくに生きづらいようだと感じさせるような場面はありませんでした。ただ単に、音が聞こえない、声を発するコミュニケーションが難しい、というだけのことで、他のことで何か差別されているようなところが見当たらなかったのです。
 
1980年代のアメリカといまの日本とを単純に比較することはできませんが、いまの日本でろう者の映画をつくっても、どうしても社会参加とか社会的差別とかいう問題が大きく表に立つかもしれないと思います。しかし思い返せば、この映画から十年近く後(1995年)、日本で手話ブームを起こしたドラマ「星の金貨」と「愛していると言ってくれ」は、この映画のように恋愛を中心に据えており、当時の難しい社会状況の中で、手話や聴覚障害者についてよくぞ描いていたものだというふうにも理解できるでしょう。
 
サラがろう者の立場を代弁している、などというつもりはありません。ジェームズから見ると自分の中に閉じこもっている面があるかもしれませんが、自分というものを良く考え、捉え、はっきりと主張するなど、やはり日本人のもつ雰囲気とはずいぶん違うだろうとは思います。社会環境も違うので、この映画がろう者に限定して解釈されていくのは無理があるでしょうし、またもったいないとも思いました。
 
先に触れたように、そもそも人と人とが出会い、結びつくところには、普遍的にこの映画が描いているような問題や意識が関係してくると思われます。それはまた、神と人とが出会い、結びつくというところにも、引き寄せていくことができるのではないか、とも思えます。
 
すると、このロマンチックな邦題によって隠れてしまった、原題が浮かび上がってきます。「Children of a Lesser God」というのです。これの邦訳としては「ちいさき神の、作りし子ら」という名の本があります。もともと舞台劇の作品が映画化されたという事情があったのです。それにしても、邦題に「神」が出せないのは、それでは伝わらないからでしょうが、少し考えてみても、重層的な意味がそこに隠されていると思われます。大枠としては、ここに「神の子」という概念があること。複数ですから、キリストのことではなくて、人間たちのことです。しかし、神に"Lesser"が付せられています。神の恵みの減ずるといった角度から見ると、それは障害者を表すことでしょう。ろう者を取り上げた点でその意味は満たされています。しかしまた、神そのものに向けた形容詞であるならば、この神は全能の神ではなく、神が未熟であったという理解を伝えることにもなります。なんとも説明しがたい、味わい深いタイトルです。
 
しかし私は、次のように考えました。ジェームズがサラの心を開こうと努力してはいますが、傷つける言葉をもう言わないと約束しながら何度も口走り、そうとうにえぐるような言葉を突きつけてしまうなど、ひとがひとの心を開こうと焦っていくと失敗に陥るという意味で、人間が人間の力で愛を口にし献身しているように見えても、それは神よりも劣った形でしかないのだ、というふうにも読みとれます。
 
神に僅かに劣るものとして人を造り(新共同訳)
 
これは、ある英語の聖書では次のように訳されていました。
 
Yet you have made him little less than a god,(Psalm8:6, New American Bible,revised edition)
 
私たち人間は、不完全で仕方がない存在ですが、大切なひととコミュニケーションを望み、相手の世界に飛び込み、心が結びつくことを求めて止みません。神よりは劣った者ではありますが、希望がないわけではない、失敗を重ねても、その先にきっと何かがある、そんなことを思わせる映画でした。とくに、度々「ゆるす」という言葉が互いに出て、その度に関係を回復していたのが印象的でした。そこにも、何か秘密がありそうな気がするのですが、さて、映画には素人の私の感想です。お叱りを含め、詳しい方がご教授くださると幸いです。



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