平和 (シャーローム)

2019年4月21日

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカ24:36)
 
こんなもたもたしたセリフが、突然現れた復活のイエスから出されたというのは、なんだかわざとらしく聞こえますね。たぶんこれは基本的に意味を伝えようとする言葉ではなく、声かけのレギュラーな言葉であったと思われます。「こんにちは」というのと同じようにしか聞こえない言葉であったのではないかということです。
 
原語では「平和、あなたがたに」という2語で簡潔です。挨拶としても納得ができるし、自然な呼びかけが突如出て来たら、確かに劇的なものだとも思えます。もちろんそれはギリシア語ですから、イエス自身から出た音がどのようであったかが記録されているとは言えません。
 
ギリシア語では「エイレーネー」というような語が書かれています。これが「平和」を意味する言葉です。イエスがヘブライ語かアラム語を口にしたとして、「シャーローム」か「シェラーム」であったとするのが蓋然性が高いものと思われます。いまでこそ、旧約聖書が記されているヘブライ語がイスラエルの言葉だということになっていますが、当時はそれはたとえて言うと日本の文語のようなもので、人々が話す言葉はアラム語であったと言われていますから、話していたのはこちらではないかという考えが一般的です。
 
ギリシア語の「エイレーネーは、ヘブライ語の「シャーローム」と大きく違わないと見る人の意見を信頼し、またイエスがギリシア語ではない語を話していたと理解すると、いまここでは、旧約聖書の殆どを占めているヘブライ語に則ってここでの「平和」について考えても構わないとしてみましょう。
 
「シャーローム」は、いまなおヘブライ語での挨拶として最も一般的な言葉だと言われます。キリスト教会でも、このことを踏まえて、教会での挨拶を「シャーローム」と交わすところがあります。ふだんからそう言うのはどうかと思う人でも、その意味くらいは知っておいてよいのではないかと思います。
 
日本語に訳すと「平和」または「平安」となりますが、訳語として可能な日本語としては他に「繁栄」「完全」「成功」「無傷」「健康」「元気」「友好」「救い」「解放」「安心」「無事」「安否」「機嫌」「和」「安らか」「穏やか」「友愛」「救助」といったものが挙げられています。
 
多くのサイトが頼りにしている「牧師の書斎」というサイトが告げていることには、この「シャーローム」の語は、旧約聖書全体では237回登場し、そのうち詩篇では27回見られるそうです。また、このサイトによると、この語は「単に、争いのない、平和な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいいます」とのことです。
 
実はこれはよく言及されることです。静かな何もない平和というよりは、何かダイナミックな動きをイメージさせる語だというのです。それを聞きたいと願い、聞こうと努める良い知らせを彷彿とさせます。神と人との間に相応しい関係が成り立っている中で、たとえばエデンの園で人が本来あるべき姿で地を司っているような安らかさを意味しているとでも言いましょうか。
 
このように味わってくると、確かにそれは「救い」と呼ぶに相応しい内容をもっていると思えてきます。キリスト者にとっては、しばしば「心の平安」ということが大切に考えられますが、それは神との関係が適切でなければ嘘になるものでしょう。逆に、イエスを接点として、神との関係が一種の契約として結ばれ、ちゃんと神のほうを向き、神の前に出て、神との関係が和平関係の中にあるときには、平安が与えられるというのは本当のことではないでしょうか。ただ自分ひとりで喜んでいるとか、安心しているとかいうことではなく、神との関係の確かさがあってこその、その状態であるというわけです。
 
復活のイエスが弟子たちの「真ん中」に立っていたというのも重要な点です。キリスト者が集まるとき、イエスは中央にいなければならないのです。そこに「平和、あなたがたに」との声が響いてきます。それは亡霊ではなく、確かなイエスでした。イエスは自らを疑いなく信じられるように示してから、弟子たちの目を開きます。かねてから言っていたようなことを言った繰り返すばかりですが、同じ言葉が、今度は弟子たちには生き生きと意味が伝わってくるように思えたことでしょう。
 
弟子たちは一旦怯えましたが、イエスと知ると、大喜びになりました。私たちも、この「こんにちは」の挨拶に、「平和」のメッセージを含めて捉えたいものです。この言葉は、私たちを生かします。ダイナミックに私たちを突き動かしてくれます。沈んだ心に光を当て、立ち上がらせ(復活するという語は、立ち上がらせるような意味)、喜びを与えてくれるのです。
 
ところで、語源というのは定かだと言い難いのが常ですが、邦訳聖書で「エルサレム」と訳している語は、少なくとも旧約では「エルシャライム」に近い音で言う言葉です。語源の話なので諸説あるようですが、この「サレム」あるいは「シャライム」の部分は、「シャーローム」のことではないかとよく言われています。もしそうだとすると、これは「平和の町」のような意味に理解することができます。過去から現代に至るまで、戦乱と争いの場となりついに国連管轄にでもしないと平和にならないとして分断されたエルサレムの都が平和の町という名前であるなら、まるでアイロニーです。いえ、やがて究極の平和の舞台となる神の国になる、そういう希望をもつべきなのでしょうか。まさにダイナミックに実現へと努めなければならないものが平和であるということについては、現実のエルサレムを取り巻く情況が、もしかしたら証明していることになるのかもしれません。
 
この「こんにちは」の挨拶を、日本語で「平和」と訳したのでは、このダイナミックさが表現できません。もちろん「こんにちは」でもつまらない。そこでいろいろ考えて、私は次の挨拶の語を使って訳してみてはどうか、と思い至りました。それは、沖縄の言葉です。たとえば「なんくるないさー」はどうでしょう。調べてみると、沖縄の方がこの語への思い入れを綴った文章に出会いました。
 
「やってもやっても結果は出ないこともある、でも精一杯やるだけやったのならいいじゃないか。だから不安でいるよりも、笑顔で「(結果は)なんくるないさー」と笑い飛ばしてやりなさい。」(ブログ・ぶらり沖縄人)
 
命どぅ宝の言葉と重ねつつ、祖父母から学んだ「なんくるないさー」の精神を豊かに伝えてくれている文章でした。辛いことがあったって、大丈夫。イエス・キリストが復活したのだもの、なんくるないさー。



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