熊本地震から3年

2019年4月14日

プレハブの仮設住宅は今年2月末の時点で275戸、前月から12戸減少しています。この減少率(4%)は、民間賃貸住宅の借上による仮設住宅でも大きく変わらず(4026戸が前月258戸減少なので6%)、確実に仮設住居の方々が減っていることが分かります。新しい家に引っ越すことができたという希望的観測をももつことができるでしょうが、他の事情による場合があるかもしれません。また、仮設住居で暮らす方々が減少してきたことで却って、なおも残らざるをえない人々の気持ちが益々寂しく、辛くなるのではないかと懸念しています。
 
地震は突然襲ってきます。そして人生を変えてしまいます。簡単に「寄り添う」なんて私は言えません。私が被災して、そんなふうににこにこ言って近づいてくる人は信用しないだろうと思います。「何がわかる」と。
 
震災を「観察して」(ルカ17:20「見える」の語のもつ意味)、神罰だなどと言った信仰者がいるのだとか。論外です。
 
他方、神はそんなふうに人を滅ぼすはずがない、などと、まるで自分が神を支配するかのような言い方も私はしたくないと思っています。これもまた、「観察して」いるようなものになりはしないかと案ずるからです。
 
「神は」と神を主語にして何かしら述語で規定しようとした瞬間、私のその判断が、神を上回る位置に自分の身を置いてしまうのではないかと危惧します。私は神をとやかく決めることはできません。自分の感情や思いつきの故に、神はこうするに違いない、と主張する気持ちにはなれないのです。
 
できるのは、信じること。信頼と言ってもいい。神は云々である、と言ってしまうのでなく、神は云々である、と私は神のことを信じており、そういう信頼関係の中に自分は神と結ばれているのだ、ということを確かめることくらいが、せいぜいできるところだと思っています。
 
このような結びつきが、ずっと辛い情況に置かれている人にも起こるとき、きっと何か助けが現れるのだ、という願いをこめて、ささやかに祈り、また何かしらできるささやかにことをさせて戴きたいというのが、ぼろぼろの土の器である私のいまです。

仮設住宅の入居についての情報がこちらにありました。



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