鉄道のトラブルあれこれ

2019年4月12日

通勤にJRを利用しています。情報が届きやすい便利な世の中になったもので、列車の遅れや事故について、通知してくれるシステムを利用していますから、利用する路線の運行状況がすぐさま分かるのは助かっています。もちろん、地元のニュースサイトを開いていると、そうした交通機関について変わったことがあるとニュースとして上がってもきます。
 
車との衝突事故があれば大変な騒ぎとなりますが、それは稀なことです。「人身事故」、これが厄介です。頻度が高く、そして実際列車が止まってしまうので影響が大きい。鹿児島本線のように路線が長いと、一箇所での事故が、全線、とまではいかないにしても、広範囲にわたってストップするということになることもしばしばです。
 
もちろん、それは痛ましいことではあります。当人の辛さや苦しみを慮ると、そこまで思い詰めたことについて同情も走るし、なんとかならなかったものかと自分に問いかける気持ちも起こるのですが、乗客としてそのダイヤの乱れに出くわしたら、「なんで飛び込むんだ」との怒りがあっても、もちろんその思いを非難することもできません。夜遅くに帰宅しようとしたその寸前に、目の前の駅でそれが起こったこともありました。消防車や警察の車が駅前に赤いライトを光らせたくさん並んでいました。最低一時間はこれで動けません。
 
「人身事故」という報道の言葉。しかしそれがどのような情況になっているか、想像するとおぞましいものがあります。ここでもあまり露骨に記すことはためらいますが、少し前には鉄道事故の際に「礫死体」という言葉が囁かれることもありました。「礫」という字は、「れき岩」というときの漢字で、小石という意味です。
 
一定の決まり文句で、無惨な情景をいわばソフトにくるみ、事実を取り上げ知らせるという工夫を、私たちは自然と行っています。「死ぬ」という言葉を忌み言葉として、「眠る」「逝く」とか「隠れる」とか様々に言い換えるのもそうした作用だと言えましょうか。それは、その背後にあるものを基本的に承知しているという前提で使われるので、表面上柔らかくすることでも十分情報は伝えていると理解することができるでしょう。
 
しかし、言葉の当たりを和らげることで、その言葉しか聞かない、つまり背後への理解を欠く場合には、現実に何が行われているのか、分からないままになっていくとなると、問題が起こってきます。同じ言葉を投げかけることで、これは通じているだろうと発信側は思い込み、受け手の側は別の意味で理解しているという事態が生じるからです。これは、言葉を使うコミュニケーションにおけるひとつの根本問題でもあります。いわゆる「言葉狩り」の問題もそこにあります。不快な言葉を使わないようにする、それは不愉快な思いをさせない思いやりであるのも事実ですが、その背後にある現実や人間に巣くう心理を、まるでなきもののように扱ったり、それに気づく機会を逸したりするかもしれないわけです。差別用語の中に典型的にその構図があると言えるでしょう。
 
「人身事故」ですら、その酷さを想像できない人がいるかもしれません。が、それはまぁ広く認知されている内容ではあることでしょう。そして、それほどの事故、誰かが亡くなる事故はそれほど多くないし、信号故障のようなトラブルも、そんなにいつもあるとは思えません。「動物支障」も身近に経験するし、動物にしてみれば自分の生活圏内に人間が作った鉄道により命を奪われるというのはなんとも気の毒な話なのですが、これもそう多くはありません。また、「線路内立入」も聞きます。覚悟の自殺であれば、結果的に「人身事故」と呼ばれるでしょうから、これは多くの場合、遮断機が下りているのに渡ろうとした人がいた場合、列車がブレーキをかけるということなのでしょうか。ちょっとくらいの気持ちで自分は大丈夫だと潜って渡る歩行者がいるわけですが、多大な迷惑をかけることになる想像力はないものか、理解に苦しみます。京都でしたが、踏切に車が突っ込み、遮断機のバーをへし折るということで電車が止められた経験もあります。
 
ところで「救護活動」という遅延理由を私はよく聞きます。毎日のように聞きます。列車の遅延の理由で一番多いかもしれません。しかしこの鉄道関係の言葉が実は私にはよく分かりません。恐らく、考えるに、急病人ということなのだ、とは思います。ふらふらと倒れた、というケースが想像されます。インフルエンザで倒れた報道がこの冬あり、そこまで働かせる会社とは何だろうとか、罹患していて普通に通勤しているというのは他人に移す迷惑行為だとか言われていました。そうでなくても、睡眠不足や低血圧など、やっぱりふらふらと倒れてしまうということは、あれだけ何千人何万人と列車を利用しているのですから、ありうることだとすべきでしょう。持病のある人が何らかのリスクを抱えつつ行動していることを鑑みると、やはり一定の割合でこうした場合が起こり得ることは仕方がないのかもしれません。
 
私も一度ほぼ目の前で人が倒れるのを見たことがあります。私が出て行く前にもっと近くの人が手を差し伸べ、駅員に連絡をするなどしたので、私は特に何をしたということもないのですが、ふらふらとへたりこむということは実際あるのだということがよく分かりました。列車はそこに数分間止まったままでした。幸いその人は意識を失うようなことはなく、ベンチに座らさせ、それなりに応答していましたが、大事には至っていないだろうと思います。
 
もしかすると、こうした事故などが自分の乗る列車に関わったとき、「なんで飛び込むんだよ、一人で死ねや」とか「倒れるような奴は電車に乗るな」とかいう怨念のようなものが、車輌に漂っているのかなぁと思うこともありますが、ツィートにはけっこうこうした本音が呟かれていることもありますから、強ち悪意に基づく想像ではないのではないかと思います。
 
しかし列車が止まるなどした時、情況が分からず困ったときには、ツィッターを自分ではやっていない人も覗くことは可能なので、情報を得てみるのもよいかと思います。何か事故があった場合、報道機関よりも確実に早く情報が届きます。出くわした人の何人かはきっとツィートしてくるからです。これは余談だったかもしれませんが、その鉄道路線名で検索するとどんどん見つかります。スペースの後に「事故」と入れるとほぼ確実に情況が分かり、画像も加わることがあります。
 
日本では、「1分遅れで運転しています」というアナウンスや表示も入るほど、恐ろしく正確にダイヤ通り列車が動いていますが、それが当たり前だとそれ以上のことを要求するのでなく、今日はほんとうに定刻に動いてくれた、と感謝する気持ちでいたいものだと思います。そうでない怨念が、2005年4月25日の朝に尼崎での列車事故を招いた、つまりあれは私たちが起こしたのだ、という意識を、私は強くもつ者でありますから。



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