ルカによる福音書17章11節から21節

2019年3月24日

助けて。いいよ。ありがとう。また、助けてね。   まずこのタイトルが曲者でした。奇をてらったのでないと解釈すれば、謎なのが4つめの文。最初から3つは、病人・イエス・病人というやり取りで理解できます。そして4つめが病人であることも、誤解の余地はありません。けれども、この最後の言葉はルカ17:11-21の場面からはうかがえないものであり、何を意図しているのかも不明です。手話通訳者は、与えられたこのタイトルを一週間繰り返し口ずさみながら、そこから何が語られるのだろう、何を伝えればよいのだろう、と過ごしていました。
 
それから、聖書箇所が21節まであることが不思議でした。通例ここから説教がなされるとすれば、19節までで区切ります。新共同訳聖書でも、そこまででパラグラフのまとまりとされており、その次も21節のところで切れるようなことはなく、この2つの節は明らかに、その後の展開のための導入となっていますから、19節までの場面と結びつけて21節までで切るというのは不自然です。尤も、これはバプテスト連盟の『聖書教育』のプログラムに基づいての切られたものですから、説教者の意志ではないはずでした。そこで、通常の説教としては、20節と21節の部分は必要がないとするか、無視して然るべきものとしたくなるのが、ありきたりの対応ということになるのだと思われました。
 
しかし、改めてそこを含めて説教を振り返ると、これは実に深い示唆に富んだものとしてプレゼントされたことに気がつきます。肝腎の『聖書教育』の解説や指摘がどうなっているか知らないので、実のところなぜここで区切られたのかは分からないのですが、逆にまたそれを知らないがために、素直にそのままにこの事態を受け止めてみることができる、とも考えました。
 
伝染性の病でもあり、また清くないとされる宗教的理由もあって、社会から隔離されて生活しなければならないその病の人々か十人、登場します。イエスはこのようなタイプの病人を癒やすとき、しばしば「触れ」ます。汚れるからと誰もが触れることを拒むそうした人々にイエスは平気で「触れ」ます。しかしここでは「見て」いただけでした。十人が声を張り上げていたくらいですから、規定にある通りに、そうとうな距離がある状態でイエスと出会っていた、とも考えられますが、とにかくイエスは癒やすために彼らに触れることはしません。ただ「見て」、言いました。祭司たちのところに行って、体を見せよ、と。
 
説教者は、律法の規定を紹介しています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。」(レビ13:45)と悲惨な状況に追いやられた病人たちですが、律法の中では、これこれの状態になったら祭司に患部を見せ、「あなたは清い」と判定してもらうことになっています。こうして社会復帰へと至ることが目標です。律法にあるくらいですから、病人のほうも、これはきっと治ったのではないか、と考えてから、祭司に証明をしてもらいに行くのが通常だろうと思われます。隔離された状態で、症状が改善しないのに、わざわざ祭司のところへ行くはずがありません。
 
しかしこの場面で、イエスが「行け」と言ったその言葉に十人は従って、ひょこひょこと祭司のところに向かうのです。これは、大した信仰です。イエスを少なくとも先生と呼び、評判を聞いて一縷の望みを懸けた病人たちは、イエスのただ与えた言葉を信頼して、それに従って行動したのです。そして、行く途中で癒やされました。ある意味でもうここで、信仰が救っている、と見ることもできるのではないでしょうか。
 
自分が癒やされたと知った、そのうちの一人が、大声で神を賛美しながらイエスのところに戻って来ました。これは、走るのもそうですが、大の男(言葉では確かに男)が大声をあげるとは考えにくいものですから、なりふりかまわず喜んでいる姿だと言えましょう。他方他の九人は不信仰なのかというと決してそんなことはなく、同じように癒やされて、言われたとおりに祭司に見せて社会復帰していくことになるのだと思われます。イエスの命令に従っているのです。望んだ願いが叶えられ、イエスに癒やされ、社会に戻り、めでたしめでたしです。「助けて。いいよ。ありがとう。」が、ここで完結すると見ることができます。
 
ところがむしろイエスのところに戻ってきた一人のほうが、イエスの指示に従っていないことにならないでしょうか。人の社会に戻ることよりも、イエスをおそらくは神であると、あるいは神の力を発揮した特別な存在であると覚え、夢中で戻って来たのです。人の世の決まりや、自分の社会復帰よりもなお、神の力は絶大なり、とそちらのほうに夢中になった。自分のために神がしてくれた、そんなことよりもなお、神はなんて素晴らしいことを見せてくださったのだろう、と喜んだ。そんなところでしょうか。
 
サマリアを強調するのは、さしあたり、ルカが異邦人への福音を基盤に置いていることから捉えてみたいと思います。生まれの異なる者もまた、このユダヤ民族を導いた神のもとに来ること、人の目に映るユダヤの歴史や人種に拘わらず、人は救われ、ひとりの神のもとに一つとなる、そんな構図を見る思いがします。
 
イエスは、ひれ伏したその人に対して、立ち上がるよう告げます。復活という意味を表すときに用いることもある語です。社会的に殺されていたこの男は、復活して全く新しい命を生きることが、ここからできるのです。行くというのは、歩んでいくこと、生きていくことの指示でしょう。あなたはこれまでと違う全く新しい人生をここから始めることができる。さあ、神を思うその心のままに、堂々と歩いていくがいい。病が癒やされる意味では、他の九人も救われたと言えるでしょうが、この一人は神と共に生きる命の中へ救われたのです。復活の恵みの中に生まれ変わったのです。
 
そこで、問題の20節に入ります。突然ファリサイ派の人々が現れます。そして神の国を話題にします。ここまでと全くつながりがありません。「神の国はいつ来るのか」をイエスに質問します。イエスは、「神の国は、見える形では来ない」とまず答えます。この新共同訳聖書の訳は誤解を招きやすくなっています。つまり、神の国は目には見えないよ、心の中にあるんだよ、のように思わせてしまうのです。しかしそのような意味では全くありません。これを新しい聖書教会共同訳は「神の国は、観察できるような仕方では来ない」と訳を改めています。田川建三の指摘に従ったように見えますし、岩波訳もこの路線であり、この「観察」という語を注釈で入れています。
 
これと対比されるものとして、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と21節で結ばれていますが、こちらも曰く付きの箇所です。「間に」のほかに「中に」あるいは「手中に」、「うちに」「ただ中に」などの訳があります。単に「中に」(聖書教会共同訳)ではないのですが、先程の「見える」と「中に」とでは対比にならないことは明らかです。そこで解釈には様々な意見が出てきました。
 
このような、短いが難しい箇所を、しかも十人の病人の話とは全く関係がないであろうような箇所を、その場面と結びつけて取り上げて説教するというのですから、なかなか困難な課題を説教者は背負った形になります。そこで、『聖書教育』の指定に従わず、19節までで切ってそこまでしか話さない、というのが、ある意味で賢明な対応でした。普通の人ならば、それで仕方がないと思われます。ところが、当該の説教者は、せっかく盛り込まれたものとして、神の国ということをここに関係させることはできないか、考えました。ただし、それを気にするあまり、語る筋道にブレまたは迷いのようなものが現れたのは、咎めるほどではないけれども、やや残念でした。けれども、この課題に逃げずに迫ろうとしたチャレンジは、大いに応援したいものだと強く感じます。
 
それは別として、私自身は、礼拝後に九人が集まってこのメッセージについて分かち合いをした場で、多くの人がいろいろな示唆を受けたことを聞いている中で、次々と結びついていったことがありました。このように、多くの人に、それぞれに、神から何かしらのものが働いたということは、説教者に備わった賜物ではないか、とも思いました。それは説教者のテクニックがよいとか話がうまいとか、そういうことではありません。まだ若い、あるき始めたばかりのこの人は、経験もありませんし、話し方はなかなか上手ですが、伝え方の技術はまだまだこれからです。しかし、本人が意識しないままにも、神がこの説教の中から立ち現れて働き力を及ぼすという意味では、その出来事を促し、神の心を運ぶ器として、きっと選ばれているのだろうということを十分に感じさせる、そんな場であったと言えると思うわけです。
 
「見える」と「中に」とでは誤解を招くことを先に挙げました。これについて、私の捉え方はこうです。まず「観察」の語を取り上げます。観察というのは、科学的に対象物を見つめて観察し、捉え、それは何であるかを調べようという姿勢を言います。神の国はいつ来るのか、という、一定の事実を知ろうとして、研究対象として、神の国を取り扱うのが、ファリサイ派の姿勢だったとイエスは見抜いたのです。確かにファリサイ派は、立派な人々です。聖書を読み、調べ、それに徹底的に従おうとし、また信仰生活をきっちり実行します。とてもとても私など及びもつかない見事な信者です。しかし、自ら立派な生活を過ごしながら、聖書の真理は何か、神はどういう存在か、などと、それらを調べる対象として、自分の眼の前に、まな板の上に並べて議論することに熱心になってしまうことがあります。そのあまり、聖書の規定に従わない人が我慢ならず、神に成り代わって自分が成敗してくれる、とでも言わんばかりに、神の手下を自覚しあるいは自称して、振る舞うことをします。そのために自分もちゃんと律法を守っているから堂々とできるんだぜ、という意識ももっています。先生に代わってクラスを取り仕切る学級委員のように。しかし他の生徒はこうした学級委員に本当の尊敬をもつことはないでしょうし、威張って権力を揮うこのような学級委員は学級のためにも先生からしても、決して好ましいものとはならないことでしょう。イエスは、そのような存在になっているファリサイ派などを徹底的に非難することによって、そうではない真意、つまり神の愛に基づく聖書の本当の狙いをクラスの中に実現しようと努めました。そのために学級委員どころか、その学級委員が巻き込んだ他の殆ど全員の生徒から憎まれ、殺されることになったわけですが。
 
イエスは、このような「観察」の姿勢で神の出来事を見る姿勢は、神の支配する世界とは違うものだ、と考えていたのではないでしょうか。神の国という言葉は、国家や土地のことを意味するのではなくて、神の支配する領域一般を表すものであることはよく知られています。私たちが神に包まれて神の支配する世界の中に招き入れられているということは、このような「観察」の姿勢は全く似合いません。近代世界が、主観・客観の対立する捉え方を徹底させ、つまり科学的観察の方法によって、世界を対象化し、観察し操作し利用するというあり方を効率的にこなすことで科学が発展し、技術を駆使することによって自然を自由に操作することが急速に進んでいったという歴史を、人類はこの百年ほどの間にようやく反省することができるようになってきました。人間が存在者の主人となり、人間の決めた意志によって、存在者を自由に扱うということが無条件で善であるわけではない、ということに気がついてきたのです。イエスは神の国はそのような観察できるようなあり方の中には現れるものではない、と指摘しました。これは今のクリスチャンも気をつけなければなりません。いえ、このことは自分では気づきにくいことです。私はひとを決めつけたりすることはしませんが、クリスチャン世界にはかなり広い範囲で起こっている現象ではないかと感じています。いつの間にか、聖書を対象物として取り扱っているような。
 
だとすれば、それに対比される、「あなた方の間に」とはどういうことか。聖書なり律法なり、あるいは神の出来事すべてを、観察できる事実や現象として取り扱うのではなく、自分自身はどうなのか、つまり神との関係の中にある人間としての自分を必ず含んだ形で捉えることではありますまいか。自分はさておいて聖書はこう言っているよ、あんたはそれに反しているね、だめたよ。そんな思考法とは無縁である捉え方です。それは「あなたはどこにいるのか」と神に突きつけられ、「あなたは何をしているのか」と常に問われ、「あなたはわたしを愛するか」とそれぞれの場で迫られる、そういう私自身が巻き込まれた形で、神の出来事を知り、その中に含まれている自分を知るというような生き方です。そのようなあり方をしている魂が、神の国にいるということであるし、それが複数あるところが、神ともにいます神の国の現れということになると思うのです。
 
確かに、九人はイエスの言ったことに従いました。そして、社会的な義務を果たして、社会復帰をしたことでしょう。ただ、この一連の流れは、ひとつの客観的に説明できる出来事として、自分と神との関係の中に置かれることなく、ひとつの記録として観察され、自分の深いところからは切り離された対象として留まっていくであろうことが推測されます。助けて、と言った。いいよ、と癒やされた。ありがとう、と感謝した。この過程は決して悪いことではないし、彼らも信じたことは確かです。けれども、そこまででした。
 
イエスの命令すら吹っ飛んでしまうほどに、夢中で神を称えて戻って来たあの一人は、この出来事を観察したのではありませんてした。自分の人生は神の中にある、そんな喜びに包まれて、夢中で叫び、歌い、踊っていたのです。神の国がこうした人のただ中にあることは言うまでもありません。これこそ神の国に起きた事件であるに違いありません。
 
神の国は、ここにあるよ、あそこだよ、と自分とは無関係に突き放したところにあるはずだが、それはいつなのか、と問うような姿勢そのものに、神の国は無縁です。しかし、自分の身に起きた出来事は神からのものだ、と神と自分との関係の中に常に気持ちが置かれているような生き方は、そして特にそれが個人としての一人の自分だけでなく、共に同じ気持ちを知る仲間と喜びをシェアできるような生き方は、まさに神の国と呼んで然るべきでありましょう。それは「いつ」と客観的に決めるようなあり方であるとは言えないはずです。すでにいまここに始まっており、いまこの瞬間が永遠であるかもしれないような、時間的な枠組みをも超越した形でイエスと共に与えられているものだとは言えないでしょうか。
 
助けて。いいよ。ありがとう。また、助けてね。――特徴的なのは、もちろん「また、助けてね。」でした。説教者は、たとえ信じても、また問題は起きてくる。クリスチャンになったからと言っても、それで苦しみが消えるわけではなく、また次々と苦難に出会う。むしろ信じたからこそ背負うようなことが次々と現れる、そんな点を指摘して、この癒やしの出来事が「ありがとう」で終わったのではなく、また今度苦しいことが起こっても、イエスが再び助けてくれることを信じていくように、と奨めていたと思います。
 
この「また、助けてね。」は、神の国があなたがたの間にある、というあり方の中でこそ生まれ言葉であったに違いありません。神を信じてよいことがあった、ああよかった、で途切れるような神との関係ではなく、そこで結ばれた関係を軸に、これからまた揺らぐことや困難に襲われることがあっても、同じように助けてください、いえ、助けてくださると信頼しています、という関係性の中にあることの告白となりました。観察するだけの状態では、決して出てこない一文でした。しかもそれは「あなたがたの間」にあると重ねられました。ルカの意図がどうだったか知りません。しかし接する箇所にこれらの記事が並べられたことで、私たちはこれらの記事の間につながりを感じる可能性を与えられました。通例結びつけられることのない2つの記事でしたが、この説教題が、結びの帯となってくれたように感じます。
 
そしてさらに、このこれからも続く関係性というものは、イエスと出会ったかつての記憶を「観察」することからも免れさせてくれます。礼拝後に集まった九人がこの物語を、もしもただ語り合っただけで終わったら、聖書研究や聖書批評で有意義でしたね、というだけのものだったことでしょう。それはただの「観察」です。しかし、一人ひとりの中から、生活における自分の体験や、自分の生い立ちや病気、障害などと結びつく言葉が打ち明けられ、それを共有する場が生まれたのであったとしたら、まさに、私たちの間に、神の国があるというほかないと確信します。聖書のエピソードが、昔あった物語、という枠を完全に超えて、いまここにいる私たちを巻き込んで、神を賛美する場となったのですから。



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