2019年3月17日

盲人のバルティマイという名が、マルコによる福音書にだけ登場します。個人名を記すというのには、一定の意味があると言われています。名には力がある。その人の名はその人の本質を示す。これが古来人間が捉えた「名」の意味でした。誰でもよい、取り替え可能な「人」ではなくて、その人でしかない人格ある存在としての個人名は尊いものです。マルコがせっかくバルティマイと記したのを、マタイやルカがカットしたのは少し残念な気がします。
 
しかしルカによる福音書にある金持ちとラザロについては、さらに異常です。これは「たとえ」だとイエスが称しているからです。つまり実在の人物のことを述べているわけではないにも拘わらず、その登場人物に「ラザロ」という名を付けている。そのラザロとは、おそらく旧約聖書の世界では「エレアザル」だとされ、その意味はおよそ「神は助ける」のように聞こえるのだといいます。まことにそのようなたとえでありました。一方、この世で贅沢の限りを極めた金持ちについては、その名で呼ばれることがありません。
 
ルカが描くこのラザロは、もちろんイエスが語ったたとえということなのでしょうが、非常にリアルな描写をしています。そのため、ここでいう金持ちは当時の支配者の姿、そして虐げられた民衆がラザロとして、どこかあてこすりのように描かれているのではないか、と解する人もいます。
 
リアルというと、ここで犬の姿が目を惹きます。
 
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。(ルカ16:21)
 
新約聖書は犬についてあまり関心がないように見えます。ルカだとここでただ一度「犬」の語を使っただけ。あとはマタイに一つ、パウロが一度、他の書簡に一度、そして黙示録に一度。これで終わりです。
 
他方、旧約聖書には30の用例があります。煩雑なので逐一出典を示すのを避けますが、そこにはいくつかのパターンがあるような気がします。
 
犬は、まず、死んだものに関係します。犬が死んだものを食べるものとして扱われており、その血を舐めるという句も幾度か登場します。また、それはその人間がいずれ死ぬということを暗示するために、犬を持ち出すということもあります。犬は、あまり喜ばしくない存在のようです。
 
それから、自分は死んだ犬のような者である、と自ら口にする使い方があります。立派な人、高貴な人の前で、自分が大切に扱われる場合に、死んだ犬のような自分をどうしてそのように大切に扱ってくれるのか、というような感じです。犬は、無価値なものの代表となっており、これは自らを卑下するための表現であると見ることもできるでしょう。
 
これは日本語でもあります。時代劇(最近はやらないし見たこともない若い人も多いでしょうね)で、「幕府の犬」というような決まり文句があります。憎い敵のしもべとして尻尾を振って喜び仕える道具となっているような者のことでしょうか。あるいは、群がるくせに、自ら判断してひとりでは何もできないようなただ吠えるような奴のことを揶揄する場合もあるかもしれません。これが聖書の世界でも同じで、そういう者の悪口として、犬が持ち出されることがあります。
 
犬はまた、自分が吐いたものに戻ってくる、とも言われています。どこまで本当にそうなのか知りませんが、自分の愚かさの故にやったことが、いずれ自分への報いとして返されてくるという様子を表すようです。そして、そんな犬みたいな者には、神聖なものを与えても意味がない、というような言い回しも見出されます。これは、豚に真珠と同様の意味なのではないだろうかと思われます。
 
黙示録ではただ「犬のような者」とだけ言われ、天の都エルサレムに入れてもらえない者の代表として挙げられています。ほかには、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好みまた行う者、と並べられる中の筆頭が、この「犬のような者」なのです。キリスト者が忌み嫌うかのような者の羅列の中の筆頭であるにも拘わらず、なんの説明もなしに「犬のような者」で伝わるというのですから、当時はこの表現で何のことだかが明らかであったということなのでしょうか。だとすれば犬にとってはえらく迷惑な話であるような気がするのですが。
 
犬派あるいは猫派ということで好みが分かれることで、その人の性格を占うような遊びもありますが、私は基本的に猫です。一緒に暮らしていたこともあります。ペットではなしに、野良くんたちです。このことはまたいずれどこかでお話ししましょう。しかし、不思議に思いませんか。よちよち歩きの子でも、「わんわん」と「にゃーにゃー」を見事に区別するのです。その「わんわん」も、実に様々な姿形があり、チワワもセントバーナードもブルドッグも、みな「わんわん」と呼べるその理由は何でしょうか。犬の犬たる特徴は何でしょうか。この認識のしくみは、案外難しいことのようで、概念形成においてたいへん興味深い問題を含んでいるように思えます。猫と区別し、馬とも違い、狐や狼だって別にしてしまうのは何に基づくのか。因みに、聖書には猫は登場しませんが、エジプト王にネコという名の人が出てきます。申命記と思しき律法の書が神殿から発見されたということでユダの宗教改革を行ったヨシヤ王をメギド(その丘をハルマゲドンという)の戦いで戦死させた王でした。
 
ラザロのたとえでの犬は、ラザロに寄り添い、傷を舐めてきました。それは評価の低い犬が近寄るということで、ラザロの惨めさをより強調していることになるのかもしれませんが、他方、誰も近寄らないラザロに親しく接する犬を、隔離された病人の手をとるイエスの姿と重ね合わせる効果があったと見ることもできます。私たちはこの金持ちをきっと疎ましく思うでしょう。そして、気の毒なラザロは、それがたとえに過ぎないにしても、つい同情してしまう魅力ある人物だと思うでしょう。
 
けれども、考えてみましょう。私たちの社会にも多くのラザロがいないでしょうか。
 
そのとき私たちは、その場面で、金持ちとして登場していないでしょうか。
 
私たちクリスチャンは、神の前に、死んだ犬も同然の者だと自覚している者のはずです。私たちがもし犬であるとするならば、せめてあの犬のように、見ないふりをしているかもしれないラザロに、近づいて接することはできないでしょうか。



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