「ラザロ、出て来なさい」

2019年3月17日

ヨハネによる福音書11章では、親しかった兄弟の死とその墓からのよみがえりが描かれています。ラザロの姉妹からイエスの許に連絡が来ます。ラザロが危ない、と。イエスは病を癒す力があることを求めてのものでした。しかしイエスは、この病気が死で終わることはない、と言い、すぐにはそこへは向かいませんでした。
 
イエスは、ラザロが死んだことは分かっていました。しかし、この出来事で弟子たちは「信じる」ことになるだろうと話します。ようやくラザロのところにイエスが着いたのは、もうその死後四日目のことでした。姉妹のマリアは憔悴し、マルタはもっと早く来てくれたら、とイエスに訴えます。イエスは、ラザロは復活する、と宣言します。マルタは、いつか神の定めた終末のときに復活することは信じていますけど、と気持ちを表しました。イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」とマルタに問います。
 
イエスはラザロの葬られた岩場の墓の案内を頼むと、「涙を流された」と記されています。新約聖書の「節」として区切られた中で最も短い節だといいます。イエスは墓を塞いだ石を取り除けるように命じます。制するマルタを退け、信じるなら神の栄光が見られるのだと言い、イエスは天を仰いで祈ります。そして「ラザロ、出て来なさい」と叫ぶと、手足を布で巻かれたまま、死んでいた人が出てきました。顔はまだ覆いで包まれていますが、生き返ったのです。この出来事で、イエスを信じる人が増えました。しかし、このことでイエスの影響を恐れたユダヤの権力者たちは、イエス殺害の計画を明確にすることになります。
 
文字通り、この世での命を全うしようとする病床の母に向けて、私はひたすらこの箇所を語り告げました。この言葉に包まれて、母は見送られることとなりました。
 
しかしまた、「死んでいた人」の中には、いま生きているつもりの人もいるだろうことを予感します。自分は死んだ犬のような者です、というフレーズは、高貴な方の前で卑下する表現だとは思いますが、虐げられ、あるいは不条理な不幸に見舞われて、自分を無きもののように感ずる人もいるでしょうし、中には、自分がそうした状態にあることに気づきさえせず、能天気に暮らしているというケースもあるかもしれません。特にここで気になるのは、洞窟の中で孤独を抱えている人です。外部との接触がない、もしあっても心を通わすことができず、コミュニケーションを欠く毎日を送り続けるような人、たとえば「ひきこもり」と称されるような状態にある人のことを思います。また、社会的に抹殺されたような人にも思いを馳せます。
 
それからまた、障害や病気のために、そういう環境に追いやられている人のことも考えたいのです。聴覚障害者にしても、普通にそこにいるような身でありながら、音声のみの情報しか届けられない生活環境にあっては、聴者が彼らを洞窟に押し込めているようなケースが、かなりあるのではないでしょうか。
 
さらに、ひとの言葉に信頼を置くことができず、よいことや光のほうに出向くことを拒む魂もあろうかと思います。頑なになって背を向けるのを見て、呼びかけるほうは、当人が悪いというふうに勝手に捉えますが、果たしてそうかどうかは分かりません。呼びかけるほうが高みに立って、威圧的にしていたとしたら、少なくともそう感じさせているとしたら、それは閉じこもる人の故だとは言えなくなります。「そんなことはしていない」と、呼びかけるほうは必ず言いますが、私は怪しいと思います。どんなふうにしていても、偉そうに聞こえもするし、悪い目を向け示しているということになりうるからです。
 
他人事ではありません。自分もまた、神の前に、ラザロになっていないでしょうか。神の呼びかけに、イエスの呼びかけに素直に出て行くことは、そんなに簡単なことではありません。でも……とためらい、自己防衛をして、自分だけの暗い世界に引きこもることを、自分がしていないと、誰が言えるでしょうか。
 
「ラザロ、出て来なさい」という声を、他人事のように聞くことはできません。そしてまた、愛する人のために、この言葉を、イエスの呼びかけとして届けることについても、怠っているわけにはゆかないと思うのです。



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