たとえと希望

2019年3月10日

10日の礼拝では、今度から他地域に赴任する奉仕神学生によるメッセージがありました。以前聞いたときよりも落ち着いて会衆をよみ見渡して語る姿が印象的でした。これからの働きを心の底に置いたことで、何か変わってきたのでしょうか。若い人が多い会堂でしたが、ゆっくり間を置いた話し方は、お年寄りでも十分対応できるものだったと思いましたが、それより、語られた言葉――それは神の言葉が出来事となる場であるのですが――を聞く側も噛みしめ、あるいは次に何が出てくるのだろうか、と考える時が、言葉の間を埋めていくような風景に感じられました。
 
開かれた福音書のたとえを取り上げつつ、会衆を見て、より有名なたとえを挟んだほうがよいかと判断し、放蕩息子のたとえを挟むなで、臨機応変にその場の霊の流れを尊重するような姿勢にも感心しました(後でこの事情を聞きました)。
 
これらのたとえについて、説教者は、「このたとえは終わらない」と言いました。私はその言葉にどきりとしました。これはとてもよい言葉だと反芻し、とっていたノートのそこに思わず波線を引きました。
 
近代思想は、主観と客観の分離という課題を残してきました。科学はそこにおいて成立したのでしたが、観察する主観と操作を受ける対象である客観とが別々のものとしてあるからこそ、主観は客観を分析し規定し、操作できるものとし、そうして科学はいくらでも発展するかのように考えられてきたのでした。しかし、特に前世紀にはその姿勢に大いに疑問がもたれるようになりました。いえ、この主観・客観の構造の問題点はそれ以前から指摘されていましたが、物理学の上で、観察者効果はミクロの世界での理論で従来の認識に大きな変革を強いることになったのでした。砕いた言い方にすると、観察するということそのものが、対象を変化させてしまうという点が大問題であるというわけです。これがシュレーディンガーの猫という有名な思考実験やハイゼンベルク以来の不確定性原理など、現代物理学を築くためのテーマと関わりを見せることになったと見ることもできると言われています。
 
何が言いたいのかというと、聖書学もまた、聖書を客観として立てて研究する方向を、近代科学からは遅れてのリズムではありますが、展開してきたように見えて仕方がないということです。聖書を対象物として徹底的に研究する、それを究極まで押し進めてきたのですが、観察者効果、つまり主観(主体)の影響なしにそれがあるはずはないという点が、蔑ろにされてきたきらいがあると感じます。先の「たとえ」について言えば、聖書の「たとえ」をとことん研究し、古代からの解釈や文献学的な根拠、文化的理解を踏まえて徹底的に分析したら、それで「たとえ」が分かったことになるのかどうか、いや、そんなことはないだろうと私は思います。学者は確かに、客観的な知を得たいと求めて全力を注ぐものでしょう。しかし、客観としての聖書を述べようとすること自体に無理があるのであって、観察者でありなおかつ行為者である主体との関係の中でこそ、対象の聖書はその本性を顕わにしてくるのだと思うのです。つまり、テクストとして述べられたたとえは、それで一つの幕を降ろすことにはなるのでしょうが、それでたとえの役割が終わったわけではなく、そのたとえが読者ないしこのたとえを聞いた者にどう作用したか、を含めてようやくひとつの完結を迎えるはずだというのです。聖書テクストのたとえは常に開かれており、そのたとえ話は、福音書当時に聞いた弟子などの受け手と共に、その後の恵みの時代に生きて福音書に触れた魂を受け手として必要としていました。いまもなお、そして今日もまた、その言葉は受け手に迫ります。そのたとえは、いまあなたに臨む、あなたはこのたとえの中のどこにいるか、このたとえをあなたが受け取ったときあなたはどう応答するのか。そのようにこのたとえ話を前にして、あなたはどこにいるのか。聖書は問いかけます。迫ります。開かれたテクストである聖書の言葉は、いまもこうして生きて働きます。だから神の言葉は生きており、聞く者、従う者を生かします。命を与えます。福音書の「たとえ」は、過去に終わった話でもないし、研究対象たる客観としての文献でしかないものでもありません。そこでは決して完結せず、いま受け取った私に、あなたに対して開かれていて、たとえが力を及ぼします。そこで私がたとえを自分のものとして受け容れてそれに応答して新たな命に生かされていくとき、福音書のたとえは、私の許で一旦完結するのです。でもすべてが完結してはいないのだから、新たに聖書に出会う人をそれは必要としているし、たとえすでにイエスと出会って救いの体験をもつ者に対してであっても、新たな形でたとえがその人を巻き込み、つねに新たな完結を期待して臨んでくるという図式になっていると考えるのです。
 
だから、聖書という本に印刷されたその「たとえ」は、決してそこで終わってなどいないものなのです。
 
もうひとつ、この放蕩息子の話で、ふだんあまり聞かないフレーズがありました。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)の内容に至ったとき、大の男が走るというのは恥ずかしいことで当時――まぁ今もですが――まず見ることがなかったのだ、それでもこの父は走り寄った、それほどに……というような語り方があったのです。この部分がまた新鮮であった、と妻が息子に夜話したのでしたが、ここで中学を卒業したばかりの息子が、意外な反応をしたのでした。いえ、息子もまた今日のメッセージに感動していたのです。語り口調がゆっくりであったせいもあるのと、実は受験の塾通いで教会のこの礼拝に出るのは久しぶりであったのとで、より心に浸みる部分もあったかと思いますが、彼もまた、その大人の男が走ることはしない、というところが胸に響いていたというのです。それも、「それは昔お父さんから聞いたのを覚えている」と言ったのですと。教会学校で私はずっと子どもの相手をしていましたし、生徒がこの息子だけの時もありました。当然放蕩息子のたとえも、カリキュラムの中で幾度かあったでしょう。その時、恐らく私もこの、大の男は走らない、という点を話した可能性はあります。実はこの息子が聞いたというその時のことは覚えていないのですが、確かにそれは私が話してもおかしくなかったとは思います。カルメル山から下るときのエリヤの姿もそうですが、男が自分の足で走るという描写は聖書でも印象的です。だからきっと話していたのでしょうが、息子は今日、過去に聞いたそのことが鮮明に浮かび上がって、心の中で結びついたのでした。これは驚くべきことではないでしょうか。
 
種蒔きは無駄にはなりません。どこにパンを投げようと、空しいだけで終わりはしないのです。
 
また別で取り上げるかもしれませんが、最新号の『Ministry vol.40』の中で、中道基夫さんが、「宣教はインポッシブル?」と題する文章を書いています。ちょうど今日それを読んだのですが、これは実に私の思いを代弁しているような文章で、書かれてあることは一つ残らずよく分かるように感じました。その中で実にタイムリーなことに、「諦めてしまうのではなく」と、希望を聖書から受け、語る教会の姿を期待すること、あるいは期待できることを訴えているように見えました。終わらないたとえ、そして魂をこめて伝えたことはきっと実るという希望、そしてそれをひたすら実行していくこと、今日の礼拝の中で与えられた恵みを胸に、この世界に語ることのできることを探し、また世界の内に神の意を聴こうと願うばかりです。東日本大震災から8年、聴くべきことはたくさんありそうです。祈りつつ。



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