いちじく

2019年3月10日

イスラエル周辺の地域での果物とくれば、ブドウが思い起こされることでしょう。確かにその歴史も古いものです。ほかに、気をつけて聖書を見ていると、ザクロやナツメヤシなど、あちこちで見かける名前も心に残ります。その中でも、イチジク(以下カタカナ表記)はブドウと並んで、かなり印象的なものではないでしょうか。
 
そもそも創世記の最初のところから、イチジクは登場します。アダムとエバは中央の木の実を食べると目が開け、自分たちが裸であることを知ったために、イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻いた、というのです。エデンの園にすでにイチジクがあったことになります。
 
栽培記録からしても、紀元前二千年をゆうに数えるそうなので、古くから知られた果実であったことは確かです。クワ科イチジク属の落葉高木であり、中国でペルシア語の音を表現して「映日果」と書かれていたのが伝わり、日本でイチジクと発音されるようになっていったと言われています。花が見えないで実がなるように見えることから「無花果」と中国で書かれていた表記に、先の発音があてられたようです。
 
夏と秋と年に二度収穫ができるものがあり、福岡県は日本で上位の生産地で、近年「とよみつひめ」と言えばひとつのブランドとなっています。ペクチンという食物繊維が豊富で、お通じに貢献するといいます。カルシウムが豊富で、高血圧の予防も期待されています。イザヤがヒゼキヤ王の死の病で懇願するときに、主が15年寿命を延ばすことを告げるとき、干しイチジクの塗り薬をつくり患部に塗って癒しました。イチジクのもつ蛋白質分解酵素が、化膿した箇所を融かした可能性があります。
 
ルカ13章では、実のならないイチジクのたとえで、あと一年待ってくれと園丁が懇願する場面がありました。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」というのは、イチジクの手入れのためには確かに正しいことのようです。イエスがそういう知識をもっていたのも確かなのでしょう。聖書は、こうした点においてもいい加減に読むことはできません。
 
ソロモンによるイスラエルの繁栄期、イスラエルの人々はブドウの木、イチジクの木の下に住んで満たされていたことも記録されています(列王記下4:25)。これが平和で安定した暮らしの基盤だったものとして描かれていますから、イチジクは生活に必要で、また安心できる収穫物であったということが想像できます。
 
このイチジクは、ヨハネによる福音書(1:48)で、ナタナエルがイエスの人物像を疑ったとき、イエスがナタナエルに対して、君がイチジクの木の下にいるのを見た、と言ったことでナタナエルが態度を一変させる場面でも印象的に登場します。ここでは本筋は、イチジクにあるのではなくて、「見た」という言葉にあると言われています。つまりヨハネはしばしばこの「見る」という語を以て、物事の本質を深く理解し洞察すること、価値を見出すことなどを含んで用いるのです。イエスはナタナエルについて、「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と絶賛したのですが、どうしてそれを知るのかとナタナエルが尋ねたときに、「いちじくの木の下にいるのを見た」と告げたために、従うようになるのです。このイチジクに、イスラエルの象徴を置いているとも言われますが、まさに律法を学び、祈りの生活をするのが、イチジクの木の下にいる風景であったのではないかと考えられていたのでしょう。あるいは逆に、迷い不安であったがためにイチジクの木の下で安心しようと求めていた、と想像する人もいましたが、ヨハネの意図はともかく、私たちはどのようにイエスから声をかけられたのか、しばし振り返ってみたいものです。
 
共観福音書でも、面白い話が記されています。マルコは、イエスが一旦イチジクの木を呪うのですが、神殿で大暴れして翌朝、その木が枯れているのを見ることになるという、まだ理解できる話を残していますが、マタイは時折突飛な物語展開を見せますから、次のような摩訶不思議な物語にしています。(マタイ11:20-25)
 
翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 
このとき、イチジクの木には葉が茂っていました。「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」(ルカ21:30)から、終末の兆候が見られたら神の国が近づいたと悟れ、とイエスが話した場面もありました。しかし葉が多く茂るイチジクは、えてして実がならないものでもあるそうです。果樹は概してそのように、葉が多いと実がよくならないので、葉の剪定が必要だと言われています。そして肥料が多すぎると、これまた葉がやたら多くなる傾向にあるのだとか。恵まれた境遇や甘いものだらけの生活だと、人間も実りがよくないのかもしれませんね。
 
この情景を落ち着いてみたところから、『イエスはなぜわがままなのか』(岡野昌雄)というユニークな新書がもう十年も前のことですが、書かれています。これは福音的な本ですので、ちょっと覗いてみてもよいかもしれません。
 
もうあと一年待って戴きたい、手入れをしますから。園丁はそう言ってから、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」とイエスに申し出ました。期限がある点に注目しておく必要があります。神は私たちを待っていてくださいますが、限度があるのです。神の「時」がいつなのかは、ここでのたとえのように、あと一年間と分かっているわけではありません。だから、目を覚ましていることが必要だと言われるようになるのです。
 
申命記で、カナンの地に民を導く神の言葉として、モーセが語る中に、その土地がすばらしい土地であることを示す部分があります。(申命記8:7-8)
 
あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。
 
荒れ野の旅から、イスラエルの民は、イチジクを含む、作物豊かな土地に憧れ、そのために長い旅を続けました。不平不満を吐いたり、偶像に気を奪われたりして、エジプトを出た者の殆どすべてはそこに入ることはできませんでしたが、その子たちをその良い土地へ届けることになりました。神の言葉が現実になるためでした。私たちは、恵まれた作物をすでに得ているかのように見えます。けれども、かの60万以上と書かれている民の労苦と信仰の記録を蔑ろにしていると、神の定めた「時」まで、葉ばかり繁り、少しも実を生まないでいることになるかもしれません。徒に大きな顔をして場所を占め、恵みを浪費しているような私です。しかし神は実を探しています。園丁のようなイエスが、とりなしをして、せっせと私に肥料を与えていることに気づいたら、どうしなければならないか、ひとつ祈って考えてみたいものです。



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