対話

2019年3月7日

「学」として規定するものであれば、言語的に表現されたものは、普遍的である必要があろうかと思われます。しかしそれが可能であるのかどうか、そんなことを近代の哲学者たちは真剣に問うていました。実社会でも、そのように普遍的にシェアされなければならない場面が多々あることでしょう。法が気ままに適用されてはたまりません。が、その解釈に幅があるのも事実です。科学は厳密に普遍的であるべきものとして探究され、その技術的応用は相当に公平に可能となるものと見なされています。
 
他方、文学や芸術は、そのような普遍性を求めるものではないとされています。同じ文学作品を万人が同じように受け止めて理解するのは気持ちの悪いものです。人間の感情や自由といったことにも考えが及ぶかもしれませんが、まさに一人ひとりの生き方に関わるものとしては、ひとつの文章が同じ効果だけを与えるということは、まず考えられないものだと言えるでしょう。
 
しかし政治権力は時に、この文学性をも画一的に適用させたくなるもののようです。恐怖を用いたり、統制を敷いたりすることによって、ひとつに染めようとします。そのために宗教を利用することもあります。歴史や伝統、宗教といったものは、この画一化のために大いに役立つものだからです。旧約聖書も、そのままに読めばこの方策に則ったものであるように読める部分はたくさんあります。いえ、ある意味でそればかりだと言っても過言ではないくらいです。むしろ、宗教性において指導者に逆らった者のほうが、人間的な魅力を覚えることすら――不謹慎ですが――あるほどに。
 
カルト宗教などと言われる現代の宗教組織は、その点ある意味で純粋な一団であろうとする動きを突き詰めたものなのかもしれません。自分の立ち位置によって、安易にそれを良いとか悪いとか決めるのではなく、その現象をよく見つめ、背後に潜むものを、決めつけはしないまでも、探る眼差しを得たいといつも思います。
 
同じ言明でも、それは科学が理想としているように、一意的には定まらない。これが、私の弁えておきたい原則です。技術として使うものに要求する普遍性を、すべてのものに用いようとするところに、議論の噛み合わなさもあるし、権力の策略もあるし、他の本来自由であるべき存在者を道具として利用しようとする営みもあるのだと考えるのです。
 
対話というと、よいことのように思えます。対話を拒む方が悪いように聞こえます。でもそうでしょうか。対話という名によって言葉が交わされる場においては、対等に純粋に、その言語で表される内容がその事柄そのものとして検討されなければならない前提があるはずです。しかし私の目には、そのようなディベートの場は、教育の場での練習的なものを除いては、あまり見当たらないような気がしてならないのです。
 
対話が、何かしら有意義な実りをもたらすものと期待するのは、殆どの場合、権力のある側、強い立場にいる側ではないでしょうか。どこまでも、優位な側が、弱者の声を聞いてやったぞ、という既成事実をつくって自らを正当化するためのものばかりであるような気がしてならないのです。
 
そのような見せかけだけの対話は、とても本来の対話と呼べるものではありません。それを以て言論の必要が満たされたとするのは、上に立つ者の側であって、同じ言葉や文章がそこにあったからといって、各方向からは違う意味合いでそれは見られ、捉えられているのであり、結局強い側の思惑のままにすり替えられてしまったように、弱い側は思わざるをえない、この構造を、見せかけの対話に挑む人々は、見抜いておく必要があろうかと思います。
 
抽象的な言い方ばかりで申し訳ありません。




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