出会いと結婚

2019年3月5日

出会って、ぶつかって、傷ついて。人格がこすれあうと当然摩擦が起こるでしょう。それまで別々の生活を営んできた二人が、互いに何かを求めて結びつこうとするとき、なにもかもが丸く収まるはずがありません。生活習慣も、考え方も、違う人格が「共に」というとき、なあなあの平和が保てはいないものでしょう。
 
恋愛が自分だけの憧れや求めから起こることはしばしばですが、それが実るときには、勢いというものも必要でしょう。氷の崖から海に飛び込むペンギンたちの映像を見たことがありますが、ちょっと躊躇いながらも、ええい、と踏ん切る姿が頭に浮かびます。恐怖や不安と勇気とがせめぎ合いながら、飛び込んでいるのでしょうか。結婚という大きな決断は、勢いがなかったらできないかもしれません。年齢が高くなるにつれ、次第に世の中が見え、慎重になっていくと思われるので、結婚年齢が上がると、飛び込む勢いが薄れる傾向にあるようにも思えます。
 
制度としての結婚だけのことを言っているわけではありません。自分にないものを相手に見る、自分には相手が必要だと思う、あるいは相手のために自分にこそできるものがある、そんな思いが、誰かとの結びつきを求めるのでしょうか。「好き」という感情がそのように動かすと思われますが、それは束縛の言葉にもなり、相手を独占したくなるのも、いわば自然な感情でありましょう。それがひとつの信頼関係となって維持されるところに、二人の関係が成立するということにもなるわけです。
 
ひとりで生きていくのは大変である場合があります。「人」という漢字は、支え合う二人を表している、などと、漢字の成立を無視した解説が、ドラマやしたり顔のトークから広まっているかもしれませんが、問題は二人だけが支え合って完結しているのではないということです。「互いに」相手を必要とし、また相手のために自らを献げるということもするでしょう。そのとき相手を「好き」だという思いがその関係の維持を支えてもいるでしょう。しかし、だからと言って相手と向き合っているだけでは、前へ進めません。自分に対立する存在として相手を見るのではなく、二人して同じ方向を見て歩んでいける、そこに魅力を感じます。同労者、同志として、共に同じものを見つめ、同じ先を共有して伴い進む。そんな生き方を、望ましく思います。
 
そしていつもの私の話の流れですでに見破っている方もいらっしゃるでしょうが、キリスト者の信仰もまた、ここから学ぶ何かがあるように感じられます。クリスチャンは、神と出会っています。出会って、ぶつかって、傷つきもしました。すんなりにこにこお友だち、というのは、子どもの素直な信仰として否定する必要はありませんが、そんなにすんなり私の思う通りに神は動いてはくれません。もしそんなふうに神を捉えているとしたら、危ないとすら考えます。
 
ヨブは、理不尽な神に文句を垂れていたように見えます。雨宮慧先生は、旧約聖書について深い洞察をなさる方ですが、ヨブ記について、最初と最後の散文の部分は、信仰者呼ぶの古い伝承に基づくものだろうが、挟まれた大部分の韻文の部分は、少し違った方針で加えられた文書であろうと語っていました。この中央でのヨブの態度は、最初と最後のヨブとはずいぶん異なるというのです。つまり大部分のヨブは、神と張り合い、自分は正しいのにどうしてこんなことになるのか、不平あるいは疑問をもっていて訴えているというのです。
 
ヨブは神と向き合い、いわば喧嘩腰でした。しかしだから神を冒涜しているとか、不信仰だとかいう評価を、神も私たちもしていません。ヨブは神と出会っていたからです。神のほうを向いてぶつかっているからです。これはやはり出会いに違いありません。
 
新約聖書には、教会とキリストとの結婚の比喩があります。信仰と結婚とは、なんらかの比喩が可能なものであると思われます。灯を準備するおとめたちの譬えのように、私たち人間は僕であるのかもしれず、教会というものとキリストとが結婚するという見方もできますが、私たちはキリストを着るのだと言われているし、キリストにあって、という言い方を、キリストに結ばれて、とどうしても訳す人たちがいるように、結婚という私たちの営みを、信仰と重ねて考えることは有意義であるように考えられます。
 
繰り返しますが、人の世の制度としての結婚の枠の中で考える必要はありません。ともかく出会うというのは、パートナーと知り合う重要な機会でありますし、人は神と、そして具体的にはキリストと、出会うことで最高のパートナーをもつことになるでしょう。その意味では、クリスチャンは孤独であるはずがないし、孤独であることができないのです。
 
時に神に文句を言ってもいい。ぶつかって、傷ついてもいい。それが、関係であって、出会っている証しなのですから。いいこちゃんぶる必要はありません。ただ、神の方を向くこと。そして、ひとしきりぶつかり合ったら、次は神と同じ方を向いて歩むことが始まります。
 
同じ時を過ごし、同じ場にいて、同じものに喜び、ふと見つめ合うのだとしたら、満ち足りた関係がそこにあると言えるでしょうし、私たちは幸福を感じるのではないでしょうか。



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