神の畑

2019年2月17日

わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。(コリント一3:9)
 
 
「根無し草」という言葉を、若い人はあまり聞いたことがないかもしれません。浮き草を指すこともありますが、たとえとして、地面に根がないように、たしかなよりどころがなくふわふわしていることを意味する使い方のほうが多いと思います。頼りない生活をしている人を戒めるような表現です。
 
この2月、Eテレの「100分de名著」(全四回)では、オルテガの『大衆の反逆』が取り上げられています。私は詳しくはなかったのですが、番組のスタンスが気に入って、テキストも読んでみることにしました。リベラルという言葉と結びつけられるオルテガですが、それは哲学的に十分練られた捉え方であることが分かりました。つまり、いま私たちが見ている政治家や評論家たちが、そしてキリスト教世界でもなんだか安直に口にしているように見えるリベラルという意味とは、ずいぶん違うものだと思ったのです。こうなると、私はよく聞かれるそうした意味からすれば自分はリベラルではないと考えていたのですが、どうやら自分がたぶんこのリベラルなのだろうというふうに思えてきました。オルテガの考え方や生き方には、やけに共感できるところが多いと感じたのです。
 
さて、その放送(テキスト)の第一回では、その「大衆」という概念について説明がなされています。タイトルの「大衆の反逆」からすると、何か庶民が反抗しているようなイメージを与えかねませんが、どうやらそうではないようです。この場合の「大衆」について、オルテガは次のように言っているそうです。
 
大衆とは、みずからを、特別な理由によって――よいとも悪いとも――評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持になる、そのような人々全部である。
 
ちょっとここで説明しただけでは伝わりにくいかと思いますが、これはオルテガが直視した20世紀前半の人間に現れた顕著な、そして危険な姿でありました。これを「平均人の凡庸な精神」とも称しています。この「凡庸」という言葉は、特にハンナ・アーレントの言葉が「凡庸な悪」と訳されて紹介されて有名になりました。ナチスによるユダヤ人迫害のような極悪の行動は、特殊な悪人によって起こったことではなく、自らの或る思考を停止して仕事に忠実に従うありふれた、どこか真面目な人間たちによってそうなったのだ、と指摘されたのです。もちろんこの言い回しは当初世間のバッシングを買いましたが、いまは広く認められるようになり、人間の悪は特別な悪の組織や怪人軍団によってなされるのではなく、凡庸な人間がいつの間にかやってしまうのだという危険性を認識する必要があると多くの知者が懸念しています。このような空気が世界を覆っており、それにまた凡庸であるならば気づかないのだ、と。
 
個性を失って、群衆化した大量の人たち、それがオルテガの突きつける「大衆」の姿でした。だからそれは庶民に限らず、エリートたちであろうが、この世界に自分の居場所や役割を確かに感じ、それを果たすためにすべきことを考える、そういう「場所」を弁えた本来の人間とは異なり、「根無し草」になって自分の拠って立つところ、根差すところが分からないままにいる人間は、何かの熱狂的な事柄に流される危険がある、とするのです。
 
オルテガの見ていたのは、ファシズムの嵐の中の時代でした。いま私たちが突き放して見れば、どうしてイタリアにしろドイツにしろ、あんな政治に人々が熱狂していたのか、不思議に思えるかもしれません。しかし日本もそうでした。批判することも許されず、いえ、恐らくは批判しない生き方を人々は選んでいた、つまり凡庸であった点では、まさにただの大衆になりきっていたと言えるでしょう。そしてそれが、現在の私たちが抜けきっている、と言えるのかどうか、真摯に考えなければならないのではないでしょうか。
 
ネット社会になり、人々は自分の意見を発信しやすくなり、共感者を得る機会も増えました。自分だけがこんなことを考えているのではない、と安心もできまず。が、それは果たして、かの「大衆」を超克した姿なのでしょうか。実のところ借り物の思想や、誰かが言っていたことを少し聞いてそうだと同調しているだけの、そして自分の考えは正しいに決まっている、というだけの、根無し草の考えではないのでしょうか。
 
酔っぱらいは、自分は酔ってなどいない、と言い張ります。判断する主体が誤っている以上、自分が誤っていると判断することができないのです。自分は大丈夫、という病に冒されてしまっているから、自転車の暴走も、歩きスマホもなくなりません。凡庸な悪は、現代にあまりに染まりすぎており、自分では気づかないほどとなっています。
 
聖書を読む人にも、当然その罠は仕掛けられているし、危険だと私はよく感じています。ファリサイ派が福音書に出てきます。悪の代表のように描かれ、特にマタイなどの書き方は、これでもかというほどにファリサイ派や律法学者を悪く書き、イエスがそれをやっつける様が痛快にすら見えることがあります。けれども、彼らは実に立派な生活をしているのでした。優秀な信仰生活者であることには違いありません。もちろんマタイもその点は押さえていますから、その信仰生活そのものにケチをつけることはできないと漏らしています。
 
クリスチャンはしばしば、このファリサイ派を見下しています。あれはいけない、ああなっちゃいけない、イエスさま万歳、と。けれども、敢えて言いますが、クリスチャンはかなり、このファリサイ派や律法学者と同じことを考え、同じことをしているように思えてなりません。少なくとも私はその意識を常にもっています。聖書を読んだ、だから自分はイエスの味方だ、いつもイエスの側にいて、ファリサイ派をけちょんけちょんにやっつけることができるし、間抜けな弟子たちの轍は踏まない、といつの間にか錯覚していることがある、と。
 
根無し草。それはふわふわして、どうにでも流される存在でした。クリスチャンはそうはならない、果たしてそうでしょうか。自分はこれが正しいと思う、と言い張るとき、聖書を根拠にしているかのようでも、それは自分が見た聖書です。自分に都合のよいように解釈した読み方かもしれません。もっと言えば、自分の感じたところを神に認めさせて正しいと思い込むようなことをしているかもしれず、いつの間にか自分が神を操っているというケースが、私はたくさんあるように思えてなりません。これは怖いことです。自分では気づかないのです。
 
ひとの考えをよく聞く、そのひとが何を言っているのかを考えようとする、この精神が薄まるとき、自分は正しい病に陥ります。私たちは先人の思想と対峙することがだんだんなくなってきました。古典に触れ、とことん付き合う暇がなくなりました。そしていつの間にか古い人は古い時代に過ぎないし、ダイジェストでちょっと聞けばそれで情報として十分だ、というふうに自分に言い聞かせ、意見の異なる人からは遠ざかり、自分の方が正しいという安心の池で釣りでもして、「いいね」と近寄ってくる魚だけ釣り上げ、問題提起する人はブロックする、そうして同調してくれる人を自分の支持者として自信をもつようになる。これは、まさに凡庸な悪の筋書きと一致していきます。
 
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見
主を畏れ敬い、主に依り頼む。(詩編40:3-4)
 
私たちは岩の上に立つように促されていると思います。岩とはキリストです。自分がキリストを決めるのではなく、他人や世間の声に従うのではありません。キリストなる羊飼いの声を聞き分けるのだと、キリスト本人が言っていました。岩の上に家を建てる賢さが求められます。
 
そして、自分ではしっかり生きているようで、実は根無し草である、ということがないように、枯れない良い土地に根を張る必要があります。それは、神の畑です。パウロは、キリスト者とその共同体が、神の畑だと言っていました(コリント一3:)。ただ無条件で私たちが良い畑であるわけではないでしょう。それは、キリストが命を棄ててつくった腐葉土の土壌です。ふわふわ動き回り操られる根無し草でなく、キリストにこそ根差す点で揺るがない信頼を保ち、共にキリストを見上げて祈り合っていきたいと願います。
 
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3:17)
 
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(エフェソ4:15)




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