ネット社会から見る人間の思考自体の問題

2019年2月13日

SNSについての良し悪しがいろいろ指摘されていますが、たとえばこういう点も注目に値すると思います。それは、人が考えていることが表に出るようになった、ということ。もちろん、物書きは昔からいましたし、新聞に投書するという人もいました。しかしかつてそれはごく一部の人であって、職業作家でなければ、自分の考えていることを継続的に人目にさらすというようなことはあまりできなかったわけです。
 
自分の考えを表に出すのは、それでもなかなかできないという人も多いのですが、以前よりはずっと垣根が低くなりました。記事というほどのことはなくても、ちょっとしたコメントを書き入れることもありますし、もしtwitterをしていれば、匿名という形でも思ったことを出してみることも気軽にできるわけです。
 
よほど過激なことを言い放って、トラブルめいたことになることもありますが、多くの人は平和に意見を言い、同調したり、軽いジャブの議論を交わしたりしています。一方的だから「つぶやき」だけで通りすぎていってもよいわけですが、この「つぶやき」という概念が、twitterにより変わってしまったと言われます。そのため、聖書の訳語でも、不平を言う意味で「イスラエルの民はつぶやいた」が誤解を招くということで、「つぶやく」の語をここで使うことがなくなりました。
 
さて、そんなふうに、人が自分の考えを公表するようになると、私はそこからいろいろ学ぶことがあります。但し、推敲を重ね、また研究の成果を記した書物ではありませんから、文章が一流であるという意味で学ぶのではなくて、心に浮かんだことをぽろりと出す以上、「人間はどのようにして不適切な思考に陥るのだろうか」という実例が与えられるということで、学ぶのです。論理的な誤りもあるし、哲学的思考からすると問題点ありありの考え方ということがよくあるわけです。
 
なんか違和感がある……それは、私と意見を異にするから、という意味ではありません。そのひとの気持ちが分からないわけではありませんが、考え方に問題がある、という様をそこに認めざるを得ない、というケースに出会うのです。
 
なにを偉そうに、と思われることでしょう。ええ、そのような私の思考自体に問題があることは当然ありうるものとして想定していくよりほかありません。理性が理性を調べられるのか、という点は、哲学では既知のテーマであり、近代哲学はその点で自我という問題に向き合い、またそれを超克する視点が近代以降の新たな時代を招いたことも確かです。
 
何も意地悪く観察して、この人は間違っている、と軽蔑するようなことのために、見ているのではありません。危ないのです。人は自分の考えは正しいという前提で思考しますが、その正しさの基準が揺らぎ、また動くことがあります。これが人の頭数で政治的決定を行う民主主義体制では、たとえそれがベターな政治機構であるとは行っても、シーソーの片方に一気にムードにのせられて意見が偏ると、社会は一方向に暴走します。だから哲学の始まりとされる時期のプラトンからして、民主主義は危険だと指摘していたわけです。プラトンの理想国家がよいかどうかは別としても、アテナイにおいて執り行う民主主義は愚衆政治となる危険がある、とソクラテスに言わせているのです。そこまで言わなくても、現に私たちは歴史から、その恐ろしさを知っているはずです。あれは過去の話だ、として自分はそんなことにはならない――そう思い込むこと自体が、実は危険です。人間の思考そのものが優秀になっていくわけではないからです。
 
人間の思考の罠に、気づかないままでいると、自分で自分を正しいとしてしまう道から、なかなか抜け出せません。何らかの力のある者が自分を正しいとすることで、社会の正義をそれに塗り替えていく、その権力構造は多くの知識者が指摘しています。自分は庶民であり弱者だからそんなことはしない、と思い込む大衆側もまた、同じ罠の中にあります。あるいはさらなる危険を招きかねない中にあります。こうした、認識なり判断なりのもつ危険性は、いくら警戒しても十分であることはないし、また、誰かが気づいたとしても、それを指摘したところで、もう感情で膨らんだ人々が、それを握りつぶすことはありがちな光景です。それだからまた危険なのです。
 
大袈裟でしょうか。私はSNSの中にでさえ、十分そのような動きを感じます。長くなりましたので、その一つの具体例は、また次の機会に記してみたいと思います。



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