やもめも生き直す

2019年2月3日

昨年11月に同じ「やもめ」についてお知らせしています。あのときには、鼻持ちならぬ裁判官にしつこく訴えるやもめの話でした。やもめとは何かということについては、お手数ですがこちらも参照して戴くとよろしいかと思います。
 
裁判という手段に訴えようにも訴えられないというかの事情も深刻ですが、今回はもっと深刻で絶望的です。やもめの一人息子が亡くなってしまったというのです。「やもめ」というのは、夫を亡くした女性のことです。昔のことですから、女性が独りで稼いで生きていくというのは、ほとんど考えられない情況でした。
 
場所はナイン。聖書でもここにしか登場しないので、殆ど情報はないのですが、ナザレからそう遠くなく、今でこそ寂しい場所のようですが、当時はそれなりの賑やかさがあったことと思われます。このように稀な地名があると、却ってこの記事の信憑性が増すように思えます。作り話でわざわざ名の知れぬ地名を挙げる必要はありませんから。
 
ナインの町を訪れたのは、弟子たちや大勢の群衆たちと共にでした。そこへ棺が担ぎ出される葬儀の現場に出くわしたのでした。亡くなったのは一人の男でしたが、母親が泣き崩れていました。一人息子を失ったのでした。イエスはこれを見て憐れに思ったと記されています。他の弟子たちや群衆たちは思わなかったのでしょうか。人間ならば可哀相にとの感情は当然起こるでしょう。お悔やみ申し上げます、と私たちも声をかけるでしょう。テレビで訃報を告げるとき、キャスターが「ご冥福をお祈りします」と締め括るのも定番です。
 
でも、そこにこめられた気持ちと、思い描くことは、この主イエスのものと、きっと同じだとは言えないでしょう。イエスが「憐れに思い」とある語は、新約聖書の中でも有名な語のひとつで、splagchnizomaiのように読むこの言葉は、内蔵を示す語が使われています。日本語で少しでも近いものを探すと、「断腸の思い」、つまり「腸がちぎれそうなほど」に心が揺さぶられる様子を表していると言われます。イエスは、ただならぬ深い感情を覚えて、「もう泣かなくともよい(原文ではただ、泣くな)」と言ったのです。
 
当時女性は一人では生きていける社会とはいえず、この女性の絶望さについては察して余りあるほどです。いわゆる一夫多妻制度も、女性を助ける意義があるとも言われますし、このような女性の地位の是非はともかくとして、ともかく人が食っていくためには、なんとかしなければならなかったわけです。
 
やもめがなけなしのレプトン銅貨2枚を献げたのは、すべてを献げたのだという話は、マルコとルカが採用しています。教会の中でのやもめについてかなり批判的に書いた第一テモテを除けば、ルカはやもめを最も多く登場させた記者で、しかも優しい眼差しで見つめ、描いています。不思議なことに、マタイは全くやもめに言及しません。ユダヤの律法を重んじるマタイにとり、やもめは視野に入っていなかったのかもしれません。
 
使徒言行録で、七人の執事が選出される契機となったのも、実はやもめの問題でした。食事の分配で、ヘレニストの仲間のやもめが軽視されていたからだ、と明記されています。また、ドルカスと呼ばれたタビタという女性が死んだときに、ペトロが生き返らせたエピソードがありますが、彼女は女性の弟子だと記されており、またその死を悲しんで囲む女性たちは、やもめたちであったと書かれています。また、ヤコブは、本当の信心とは、困っているやもめの世話をすることだと言っています。
 
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という、イエスの言葉。神の言葉なるものは、口先だけでなく、存在を伴うもの、現実にそれが起こるもの、という特徴があります。ここでの「起きる」はegeiroと読み、日本語と同じで、「目覚める」の意味で使うこともできます。しかしまたこれは、「よみがえる」の訳にも使われることがある語です。もちろん、ここでその訳を採用することはできませんが、「あなたに」とはっきり書かれてあることから、私たち読者をも巻き込んで、突きつけられているようにも受け取れます。「死人は起き上がって」というのは、背を起こして背筋をピンと張ったようなイメージを与える表現です。復活とは言えませんが、私たちもしゃきっとしたいなと思います。そうして「イエスは息子をその母親にお返しになった」は訳しすぎか、原語は単に「与えた」。そう、神は与えるお方だという私たちの理解のとおりに、場面は動いていきます。
 
働き手を失い、生きる手だてを奪われた母親の悲しみに対して、イエスは「泣くな」と言い、死んだ者には「復活せよ」と呼びかけ、母親に生きる希望を「与えた」のでした。私たちにも同じことが起こっていませんでしたでしょうか。罪に死んだ私は、呼びかけられて起こされたのです。この出来事は、きっと誰かに生きる希望を与えることができるはずです。そしてこのような出来事を他に目撃したならば、ここにいた人々のように、「恐れを抱き、神を賛美して」、全土へ広めることになるのではないでしょうか。私たちに、それは課せられています。期待されています。死んでいた私たちは、神の腸がちぎれるほどに愛されていて、向き合った神から発される言葉に生き返らされ、恵みを与えられましたが、このことを告げ広げることが、言い渡されているのです。どんな中でも、私たちは、生き直すことができるのです。



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