アニメファンとクリスチャン

2019年2月1日

いわゆる「オタク」ではありません。私には、それほどの知識も情熱もありません。ただ、気に入ったマンガやアニメには、どっぷりと浸かります。しょうもないアニメを惰性で見ることもないわけではなかったし、気に入ったものはけっこう感動しながら毎週楽しみにすることもあります。
 
小学生のころ、手塚治虫のマンガに出会ったことが、その契機でした。はっきりしているのは、それで人生観が変わった、あるいは生まれたのは確かだということ。私にとり「火の鳥」や「ブラック・ジャック」は人生の道案内となりました。これらなしには、哲学への関心もなかったことでしょう。
 
キャラクターで魅力的なのは、やはりどこか秀でた才能の持ち主です。しかし、私はどうやら、超能力や超常現象を繰り出すものには、馴染めないようです。もちろん「火の鳥」のように、生命をテーマとする上で火の鳥という必要な設定はあってよいし、未来を描く中で、いまは実現していない機械や制度があったりするのは問題ではありません。ただ、なんとなく空を飛んだり火炎を放射したり、超能力砲を敵に向けてやっつけるというような展開が好きになれないだけです。死んだ人が生き返ったり、時間が戻ったりする設定も、物語と自分との距離を遠ざけるばかりです。
 
むしろ、とことん人間心理を描こうとするものは、たまらない共感を覚えます。自分もそこに参加している思いを経験することができます。あるいは、自分の体験と重ねることで感動を増します。せりふに出ないところにも、心の揺れ動きが感じられるもの、そしてしばしば、それが言えなくてもどかしいけれど、伝えたいという願いがあること、そんな心の優しさや揺らぎが描かれている、そういうものは、ずっと読みたい、あるいは視聴したいという気になります。
 
アニメーションというのは、制作者の意図を隅々まで徹底的に行き渡らせることが可能な世界です。実写なら、偶然映り込んだものというものもあるし、そもそも役者が生きた人格者ですから、役者の解釈により監督の意図とは違う動きが生まれる可能性がつねに伴うことになります。監督の意図した通りの撮影ができるまで撮り直すほどの時間と費用はかけられないのが実情ではないでしょうか。しかし、アニメーションは、すべて制作側の意志で描き込むことができるものです。監督のコンテや指示とおりに創ればよいだけです。そこまでこだわって制作しているかどうか、というだけの問題であって、やろうと思えば、すべてにおいて「なんとなく」を廃し、色から音楽から俯瞰からすべてにおいて、明確な意図を理由づけて描くことが可能なのです。
 
昨年末、そのように制作された作品が第一期の幕を閉じました。見事な出来でした。Amazonで自由に観られるので、何度見直したか知れません。観る度に、制作意図を発見したり、台詞の意味が見えてきたりします。事実、放映当時から、全国のファンの中には、その読み取りに長けた人がいて、毎回詳しい分析をネットで語るという事例が多数観られました。
 
私は、そのような人々の仲間に入りました。マニアックなレベルには到達できませんが、台詞や描写の分析を試みました。すると、聖書の釈義との共通点を感じました。現れた言葉の背後に何があるのか。何故このように描かれているのかを察するため、どことどう呼応して、この言葉があるのか、感じとり、また関連することとして証拠を見出していくのです。確かにそれは、聖書を読み解く手法と似たものでした。もちろんそれは人間の所作に過ぎないのでしょうが、優れた芸術作品には汲めども尽きぬ奥深さを見出すことができるのと同様に、よく寝られた言葉や絵柄の向こうに、もしかすると作者も気づかないような何かを感じることでさえ、可能な世界がそこに現れているのでした。
 
そうしたことを共通して感じた仲間に入り、語り合うチャンスを作りました。その作品のファンの方とつながっていき、自分の意見を言ったり相手の考えを知ったりするわけです。このような趣味の方との交流は、SNSでは初めてでした。すると、そのうちにだんだん分かってきました。アニメやコミックスのファンの方々、実に優しいのです。私はそれまで、おもにキリスト教関係の人とのつながりというものの中にいましたから、それが当たり前かと思っていたものが、アニメファンの方々は全然違いました。
 
経験的に知ったことですが、アニメファンの方々は、実に優しく思いやりのあるものの言い方をするし、相手を尊重し、互いに気持ちよくなる交流をし、また義理堅いところがありました。それは交わったどの人もそうでしたから、明らかに一般的傾向です。いえいえ、全員がそうだなどと言うつもりはないし、いい友だちに恵まれたという幸運があるかもしれないのですが、いわゆる荒らしというのはネットの中でもほんの一部であり、たいていは互いに敬意を払っている様子がうかがえます。そのような思いやり文化の中にいるからこそ、相手のことを「お宅」と呼んでいたのでしょうし、それをオタクとして中森明夫が命名したというのが通説ですが、当初は否定的なニュアンスで用いられていた語が、後に肯定的に使われるという、歴史の常道を歩んだ表現だと言えるでしょう。
 
逆に、キリスト教関係の人は、時折つんつんしているように感じます。優しい人、共に主のもとにある交わりがあることは重々承知です。しかし、そうでないタイプも目立ちます。どこか視線が高いところから見下ろしているように感じることがよくあります。あるいは、気取っています。比較して分かってきたことには、キリスト教関係のSNSのほうが、互いの悪口を言い合う傾向が強く、強い非難の言葉が多く飛び交う場合が見られやすいということです。相手を悪と決めつけた、人権感覚からすると明らかに暴言であるようなものが、普通に流れていたりします。思うにこれは、自分が正しいものという立場に立って他を見下ろしているようなものだと仮定すると説明がつくような現象です。キリスト教は正義感と切り離せないようになっているものと思われます。このことについてはまたいずれ検討することとしますが、それのよくない側面として、私がふだんからよく問題にしているような、自己義認の懸念ですが、これがキリスト教関係者にはしばしば見られると思われるのです(そして私もその部類に入ることは覚悟の上で言っているのですが)。アニメファンたちにはそれを感じることが殆どないのです。それは、自分の趣味を守るためには他人の趣味を攻撃しないという立ち回りの故かもしれないのですが、自分の感じ方だけが正しい、というところからものを言っているのではない、という空気をひしひしと感じます。

ところがこれが信仰となると、よりムキになる傾向があることは否めないように感じます。SNSで見る限り、キリスト教関係の人々のほうが、殺伐としているように感じることが多々あります。そして、有名な人につながろうとするのはどこにでもあるにしても、つながるとそれの取り巻きができ、意味のないような記事に対しても、無条件で「いいね!」が重なっていきます。しかしファン同士の中では、作品の作者や声優などはもちろん桁違いの数字が尽きますが、問題は共感できるかどうかであって、有名無名とはあまり関係なく、好みに合う声は無条件で支持される傾向が見られると言って間違っていないだろうと思います。
 
よい経験になりました。偏見と思われても仕方がないでしょうが、キリスト教関係のネット交流は、どこか不健全に傾いていると思います。そして私のように、そうした世界で発言したり交流したりしているだけでは、それに気付かないのです。このことは、キリスト教会(世界)が、この社会でどういう位置にいて、どういうものであるか、それをよく示しているように思えます。心ある人が懸念している、キリスト教世界の危機というものは、必然的にそうなっているのだということに、納得してしまうのです。
 
おそらく、他の趣味、たとえば釣りだとか映画だとか、そういう世界での交流を盛んにしているクリスチャンは、このことに気付いているのではないでしょうか。あまり露骨に私のようには口に出さないにしても、私の言っていることを感じたことのある人が、いるのではないでしょうか。
 
きっと、キリスト教の危機というのは、クリスチャン自らが、つくっているのだと私は強く感じます。しばしば世の愛が冷えているとか、自己中心になっているとか、そんなふうに世を非難する声も聞きますが、おそらくそうではない、むしろクリスチャンこそその「世」をなしているのだ、といふうに見たほうが適切ではないかと感じます。もちろん、それは私自身を含めてのことです。私には刺があり、毒があることは確かです。意見としては批判を大切なものと考え、一概にひとを見下すようなことはしないつもりですが、それでも、つんつんしているように見えても仕方がないようなものの言い方をしているはずです。偉そうにと思われても弁解しないほうがよい場合が確かにあります。ですから、ここでもまた自戒を込めて言わなければなりませんが、このようなことに気付いて、リスタートすることが、必要だと切実に思えてなりません。


【コメント】要するに、内輪もめという現象がまずいし、その根っこは何だろうか、ということです。かつての西欧文明のように、キリスト教が当たり前の社会の中で意見の相違から争いがあるというのは、(よくないとは思うが)まだ意味のあることだったかもしれないけれど、社会的にマイナーな中でそれをすることに何の意味があるんだろう、という素朴な疑問を呈していることにもなるだろうと思います。



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