敵か味方か――聖書の矛盾――

2019年1月27日

本日27日は難しいメッセージであったとお感じになった方もいらしたと聞いています。私の責任で、私が独自に受け止めたところを少しお話ししたいと思います。これは、説教者の意図とは無関係であるという前提でお読みください。あくまでも、個人的な感想だということを、最初に掲げておきます。
 
 
イエスが、自分に味方しない者は「敵」だと、排他的に聞こえるような言葉が福音書にあり、また、自分に敵しない者は「味方」であるとおおらかな言い方をしたものも福音書にあり、どうも矛盾するように見えるかもしれない、それがメッセージの入口でした。そもそも聖書の記録も、その記録者のバイアスのかかったものが遺されているわけですから、書いた人の個性がどうしても影響する形になってしまいます。ですから、聖書の表現が一見矛盾しているように見えたところで、そのことが直ちに神の矛盾であるという結論に導かれる必要はないように思われます。しかしイエスその方が本来強く言っていたもの、いわば本心に近いものはそのうちどちらであるか、という指針を、研究者は一定の根拠を基に明らかにする使命を受けていると言えるかもしれません。、研究者でもある説教者は、文脈にもよるのですがこのうち、味方という結論になるほうを、本来のイエスのものであると受け取りたいという意見を提示しました。それは、敵を愛するというイエスの言葉や考え方に合うと理解することと結びつけてのことでした。もちろん、そうでなく敵と戦うのだというように受け取れる言い方の言葉が聖書にはまたあるわけですが、議論を単純化するためにも、今回のメッセージでは、このように、味方として受け容れる立場を前面に出してみようとしたと理解できます。
 
それは、論争や対立があることを否定するというものではないでしょう。適切な批判を互いにかわして高め合う、あるいはそうしてよりよい成果へと進むことは望ましいことです。また実際、受け容れられない相手やその意見というものもあるでしょう。「愛さなければならない」と頑なに背負う必要もないでしょう。えてして、「愛さなければならない」と規定するとなると、実はそのほうが、より他の意見に対して排他的になっていると見ることもできるのではないでしょうか。これが正しい、だからこれに違いない、との確信は、信仰の中で個人的にはきっと大切なものなのでしょうけれども、もしもその自分の体験を他者に押しつけて、あなたもそのようにしろ、と迫るとなると、これは暴力にもなりかねません。
 
キリスト教に、福音派と呼ばれるグループないしその考え方があります。敬虔な生活をするのはすばらしいし、私は尊敬しています。そこで育てられもしたし、基本的に大好きです。けれども、聖書は神の言葉としてひとつも矛盾がありません、それを信じなさい、とほかの人に迫るような勢いで告げ始めたとするなら、好ましくない事態を招く可能性があると考えます。今回説教者は、万人救済説を、より根源的な原理として採用し、その上での信仰生活というものを提言します。その上でなお、誰かに自説を押しつけて縛ろうとする考えをも拒否します。その意味で、万人救済説すらも、これこそが真理だとして他人に押しつけることもしていないように見えます。自分の捉え方もまた、批判されなければならないし、多くの考えのひとつのものなのであろう、と相対化する覚悟でいるように見受けられます。一つの道を提示しつつ、それすら相対化するという姿勢、そしてそれもまたメタ的な視点から見ればどうなのか、というふうに、地べたを這う人間は堂々巡りの問いの中に置かれてしまうのが宿命なのかもしれませんが、とにかく、自己を絶対視しない、させない、というスタンスについては、私もそうありたいと願うばかりです。
 
ひとは、自分の信仰は貫いてよいのです。誰かに、そしてそれがどんなに権威ある立場の人からであっても、惑わされる必要はありません。ひとは、自分と神との関係の中にひとり立っています。自分と神との関係の中には、他の誰をも入れる必要はないし、入れることはできません。しかし、その関係の中で見たこと体験したことを、これこそが唯一の真理だ、と他の人に強制するようなことは、すべきではないのです。自分の知ることは、one of them に過ぎないかもしれない。大いにほかのひとの研究や考え方からも学ぶべきだ、実際そうだろう、自分の無知からくる誤解を真理だと頑なに言い張ることは、好ましいことではないはずです。ただ、自分と神との関係はこの鍵でロックされている、そのことについては揺るがない、というものはあってよいし、むしろあるべきでしょう。願わくば、その根拠がただの思い込みや、無知に起因する勘違いではないとよいがと思います。聖書の一部だけを強調し、その一本の糸にすがるようにして、実のところ聖書の他の太い綱を無視したりぶった切ったりするような真似をするのは愚かであるとも言えます。聖書自体、様々な文書により異なる表現や内容の相違すらあり、私たちはそのうちの一定の標準化を研究者に委ね、採用しているに過ぎません。また、たとえば聖書の正典決定においても、どこかで人間や教会の判断に委ねてしまっていることになります。自分の理解しやすいように都合良く聖書を利用するような罠に、案外ひとは簡単に陥るものです。よくよく気をつけなければならないと自戒をこめて言いたいと思います。
 
こういうわけですから、さらに聖書の具体的な一つひとつの理解においてまで、誰か特定の聖書解釈者という人間の理解をただ鵜呑みにしてそれを絶対化するというのは、神の声を聞いているようで、実のところ誰か人間の判断を神のように崇めていることにもなりかねません。これこそ、神ならぬ偶像を拝むということにほかならない、とも言えます。
 
聖書の組み立てを、合併する会社組織に喩えたのは、私の思いつきでしたが、それを説教内で採用されるとは驚きでした。もちろん、それぞれの会社が別々に勝手に運営していたのが仕方なく統合するというような意味ではなく、聖書はいろいろな人がいろいろな時代に、いろいろな場面で書いたものである中で、摂理とでも言えばよいのか、大いなる方の意志または霊が、ひとの理解の及ばぬ中に働いて、同じ糸でつながるかのように書かれていったように考えたいと私は思う者です。つまり私は明確に、聖書を神の言葉であると信じる立場です。ただ、それを、文字通り読んだそのままに、ということには留保します。なぜなら、文字通り読んだのは、この私、人間であるからです。一定の解釈を絶対化したとたん、実のところ人間を絶対化していることになる、と考えるからです。神が、聖書筆記者に何かを教えた、そして筆記者はその個性においてバイアスのかかったままに記録した、その結果その文章作品は、一定のフィルターがはめこまれたようなものとして遺されたのであって、きっと様々な立場の人がいろいろにアプローチしやすいように、多様な表現や考え方の道筋が、聖書という世界には拡がっているのだろうと思います。そうでないと、誰もが小一の数のおけいこから始まって教育課程に定められたとおり、その道筋どおりに算数を学び数学を学んでいくかのように、信仰も、いつも同じ窓口から入って同じ経路を辿って成長していくよりほかなくなります。人間がロボットのように、オートメーションの中で生産されていくかのようなイメージは持ちたくありません。そうではなく、様々な立場や経験の持ち主が、それぞれに別の聖書の箇所から何かを感じ、そして神と出会って、信仰の世界に入ります。それはもう千差万別です。となれば、聖書というものが、一つの入口だけしか用意されていないような、せこいものであるはずがないと思うのです。マタイが書いたものであったからこそ、神に近づけた、という人がいてよいし、ルカの書き方だからこそ、イエスと出会えた、という人がいるはずだし、パウロの言葉に引っ張られたという人もいるでしょうし、それからまた、コヘレトの言葉で初めて聖書の世界に入ることができた、という人もいてよいわけです。どこを切っても同じ金太郎飴のようなクリスチャンばかりであったら、私はそこにいのちを感じません。これを誤解した集団が現にあることを悲しく思いますが、へたをすると、自分たちも同じことをしかねないことを、警戒する必要はあるでしょう。
 
他方また、聖書には矛盾するところがない、と言い張ることは、私からするとむしろ弱さをにじみ出しているようにも見えます。というのは、「矛盾しない」が原理になってしまうと、矛盾があってはいけませんから、矛盾を指摘された時に、それは実はこういうことだ、と矛盾を回避するための論弁をまず考え、提示しようとしていくことになります。こうなると、次第に詭弁が幅を利かすようになり、いつの間にか、矛盾を回避する論理のほうが上に立つ、つまりはより根源的な原理にすらなってしまうのです。そしてこれがまた、人間はなかなか気づかないトリックだと言えます。説教者の指摘していた、分からないことを分かったように断言する宗教者への批判は、たとえばこういうところに現れるのではないでしょうか。つまり、聖書に矛盾なし、と強弁する立場は、何らかの矛盾を指摘されることに対して、脆弱な構造をもっているのです。むしろ、聖書に矛盾はありますよ、という方が、その点は強いはずです。矛盾を突きつけられても、そうです、当然です、でその問題が終わるからです。その上で、だから神の言葉は真実なんですよ、という結果を導くというところが、醍醐味であるような気がするのですが、如何でしょう。あんたはそれでもクリスチャンか、と問われても、そうなんです、だからクリスチャンなんです、とにこにこ微笑んでいられるというのと少し似ているかもしれません。
 
ところでこうなると、また哲学の泉とも言われる哲学者カントの思考法も役立ちます。カントは、人間の認識には限界があるということを指摘しました。当時急速に発展を始めた科学を無制限には認めなかったのです。そのことで、道徳や信仰の世界を、科学的に規定してしまうことから守りました。むしろそれは理性の事実だとして、否定できないものである確信を基として定立します。道徳や信仰について科学的に証明することはできない代わりに、むしろだからこそ、それは科学的に攻撃されない、という結果をも導いたわけです。聖書を科学的に規定することはできない、つまり、それは矛盾がある、と規定することもできないということになれば、だからこそそれは、聖書に矛盾があるではないか、というような指摘からも守ることが確かにできる、というような思考構造がある、という類比を、私はふと感じたというわけです。
 
見たところ聖書には矛盾するかのように見えるところがあってもよい。それは、人間の見方の中での矛盾なのですから。しかし、自分と神との間には、誰からも攻撃されない、確かな事実としての出会いがある。その自分と神との出会いの出来事の中で、神の声を知ることは重要です。いえ、むしろそれがなければ信じているとさえ言えないのではないかと危惧します。人の手により書かれ、人の手により伝えられ、編集され、人の手により訳された、聖書の「ことば」を通して、私たちは神と出会うことができます。神の声を聞くことができます。この事実については、揺るがない確信がある、それが信仰者の強みです。そしてこういうことがあるから、聖書はやはり神の言葉だと思うのです。さらに、この視野をもつとき、自分のもつ理論めいたものも、人間の有する見方のうちの一つでしかなく、神の視野からしてもミクロ的なわずかなものでしかない、というように相対化することもできることでしょう。このとき、他者がそれぞれに神と出会っていることについては、祝福こそするものの、非難などは、することができなくなっていくでしょう。敵を愛するという言葉からくるイメージも、自分の好きな人を愛するのと同じ気持ちで、敵として現れた相手を愛さなければならない、などと思い込む必要はありません。対立する相手すら、自分の知らない仕方で神はその人となんとかつながってくれるだろう、と信頼を置くのならば、こよなく尊い寛容の中に身を休めることができるかもしれません。あるいはまた、その人が頑なならばその心を融かしてくださるようにと神に願うこともできるし、他方、そんな見方をしている自分が傲慢でないか、自分の改めるところもまた教えてください、と改めて神に祈る機会ともしていけたらと思うわけです。
 
いま初めて思いついたというものでなく、ふだん考えていることについて、刺激を与えて少しでも形にするように促してくれる、そんなメッセージをありがたく思います。ですからこれは、説教の解釈でも説教の批判でもなく、単に説教に触発された私の中での出来事であるということ、従ってあくまでも個人的な感想であることを、再度お断りしつつ、筆を置きます。
 
 
【附】このような感想をお読みになると、あまりに個人的な信仰がそれぞれ勝手になされることを放置するかのようにも見えるため、それではいったい教会とは何のためにあるのだ、とお思いになる方がいらっしゃるだろうと思います。ここでは、教会共同体という次元での出来事は、全く考慮に入れることなく呟いたに過ぎません。同じ聖書の矛盾云々についても、教会としてどのように読んでいくか、信じていくか、は大切な問題です。それを完全に規定することはできないかもしれませんが、指針や共通理解なしに教会が形作られるとなると、却ってそれは人間的なつながりに基づくものとなりかねないでしょう。当然このことは、改めてまた適切な根拠を聖書から与えられながら、しかも同時に現実に営んでいかなければならないものと思われます。私もまたここでそれに踏み込むようなことはできませんでしたが、同時に説教者にもまた、聖書のテクストからさらに、いまを進む舟のための針路へとつながる呼びかけと、それからまたその一員一員を生かして立ち上がらせる、より実際的な言葉を、期待したいと思います。



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