ベルゼブル

2019年1月27日

イエスの、敵か-味方か の議論は、ベルゼブル論争にまつわる場面につながって現れたのでした。そこで今回は、この怪しいベルゼブルに注目してみたいと思います。
 
ギリシア語で「ベルゼブル」と綴りますが、旧約聖書の文化では「ベルゼブブ」のような発音のようです。ギリシア語でそもそも「ル」だったのか、何か誤ってそうなったのか分かりませんが、これは旧約聖書の中では、列王記下で「バアル・ゼブブ」として、ペリシテ文化圏で拝まれていた神として登場します。北イスラエルの王アハズヤが、怪我をしたときにそれに祈ったことで、預言者エリヤは愛想を尽かしました。ヘブル語での意味としては、この名は「蠅の王」「糞の王」のような意味だとして軽蔑されるものとなっていますが、元々は「家のあるじ」のような意味であろうと考えられています。
 
バアルというのはカナンの地に元からあった神の名で、「主人」「尊い」のような意味合いであり、農耕神、また戦いの神として広く信仰されていました。まさに私たちが神を「主」と呼んでいるのと同様の呼称であり、これに様々な形容をつけることで、私たちが「全能の主」「贖い主」「愛なる主」と呼ぶように、様々な呼び方がされました。「バアル・ガド」「バアル・タマル」「バアル・ハツォル」「バアル・ハナン」「バアル・ペオル」など、14の名が旧約聖書に見られます。
 
パアル・ゼブブもその一つで、これを指すものとして、福音書にギリシア語形で記されていたものと思われます。当時、ベルゼブルと言えば、悪霊のかしら、まさに主人と見られていたであろうことが推測されます。次の七箇所が、新約聖書に登場する「ベルゼブル」のすべてです。これらの多くの場面は「ベルゼブル論争」と呼ばれています。
 
 
弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(マタイ10:25)
 
しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。(マタイ12:24)
 
わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。(マタイ12:27)
 
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(マルコ3:22)
 
しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、(ルカ11:15)
 
あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。(ルカ11:18)
 
わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。(ルカ11:19)
 
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ところが、ここで、サタンとか悪霊とか、あるいはディアボロスとか呼ばれていた悪鬼の類はどう違ってくるのだろう、という疑問が湧くだろうと思います。これを、さも見てきたかのように秩序正しく説明するマニアックな方もいますが、聖書において、さてそこまで立ち入る必要があるかどうかは分かりません。
 
ただ、語の意味としては、サタンは「敵対者」というヘブル語からあるもので、ギリシア語の旧約聖書でこれをディアボロスと訳しているようです。しかし旧約聖書の世界では、一般にサタンはこの原義からして、敵対する「人間」をさす場合が多く、当初はダビデが裏切る者となってはいけない、というサウルの言葉がサタンを用いるなど、専ら敵の意味で用いられています。それが時代が下るにつれ、何かしら人間以上の存在を表すようになってきました。ヨブに試練を与えるのもサタンでした。同じダビデでも、最後に人口調査をして高慢になる場面で、サムエル記では主がそうさせたように書かれていますが、それよりずっと後にまとめられた歴代誌では、主がそのようにしたのはおかしいと考えたのか、サタンが数えさせたように編集し直しています。それでも、何か恐ろしい悪魔の王のような印象は、旧約聖書には少なくともまるでありません。
 
新約聖書で「悪魔」と訳しているのもディアボロスです。それで、マタイの悪魔の誘惑の場面でも、ディアボロスの誘惑に遭いつつ、イエスは「退け、サタン」と、ギリシア語綴りで「サタン」と叫んでいます。ヘブル語の音をそのまま使ったということでしょう。私たちも「キリスト」や「メシア」あるいは「救い主」など、別系統の語で同じ方を呼びますから、悪魔についても、あまり一つひとつの差異にこだわる必要はないのではないかと思われます。
 
悪魔は巧みです。人の力を超えたものをもつように新約聖書では描かれ、なんとか私たちが神の前に罪赦された者とならないように告発する機会を絶えず窺っています。このような者に、人が単独で立ち向かうことはできません。自分は大丈夫などと思っていても、悪魔に操られていることは、人には自覚できないのです。ユダにサタンが入ったという記事は、強烈な戒めとならなくてはならないと思います。
 
これは私のただの趣味ですが、もしご存じなければ、フランシスコ・ザビエルも登場する、芥川龍之介の『煙草と悪魔』を、この機会にお勧め致します。短い作品ですので、お楽しみくだされば。  



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