礼拝はいのちのことば

2019年1月18日

礼拝は、何よりも神を拝するため。それはあたりまえすぎますから、とやかく説明しても、これまたあたりまえのことをぶつぶつ言うばかりとなるでしょう。
 
礼拝のとき、何を戴いていますか。
 
いのちのことばを受けている。そうです。だから必死です。この礼拝が地上の人生での最後の礼拝であるかもしれない、いま聞くこの説教が最後だ、というくらいの気持ちで臨んでいます。
 
新約聖書の書簡を見ていると、多分に、その手紙を受け取る人々がこれと似た感覚でいたか、あるいはこうした感覚をもってもらいたいという思いを書き手がもっていたか、そんなふうに思えてなりません。
 
でも、現代の私たちは、当時の人々と違い、命懸けで礼拝するという空気が薄れています。少なくとも日本では、命の危険を冒すことなく礼拝をし、また教会に行くことができると言えるでしょう。それでまた、のほほんと過ごし、礼拝中は舟を漕ぎ(このたとえが伝わりにくくなっているかもしれません、居眠りをすることです)、礼拝が終わると元気になって楽しい会話に勤しむ、という教会生活でも問題なく過ごすのが日常にもなりうることになります。
 
いのちのことばと覚悟して聞くか、説教をなんにも聞かなくても生きていくか、両極端である必要はありません。一週間の生活・労働に、へたっている人だっているのです。教会に集まるときにはにこにこしていても、倒れそうな人や、精神的にまいっている人だって、いるわけです。そんな人は、説教に求めているということが多々あります。
 
どうか支えてくれる言葉をください。
また立ち上がって歩いていける、一週間分だけの元気をくれる言葉をください。
 
語るほうも、水に渇いてくる鹿がいること、へたれ凹んでいるために聖書の言葉でやっとのことで生きているような人がいる場合があること、そんなことをまずベースに、そこにいて、また備えることを、教会に集う仲間に期待してよいでしょうか。ひとを生かすのは、聖書の言葉と、聖書の霊に裏打ちされたひとの言葉でしかないのですから。



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