聖餐ですら現代では

2019年1月14日

FEBC(キリスト教放送局)では、日曜日は、教会での礼拝の録音を放送しています。昨1月13日は、日本福音ルーテル神水(くわみず)教会の礼拝が放送されていました。その中で、こんなエピソードが話されてはっとしました。
 
学生が友だちと礼拝に出席していました。その日は聖餐式がありました。この教会では、洗礼を受けた人には他の教会員であってもパンと聖餐の杯を渡します。まだの人には、一人ひとり牧師が祝福の言葉をかけるとのこと(カトリックの方法に近いのでしょうか?)。その学生は、祝福を受けて帰宅しましたが、後に手紙が寄越されたとのことでした。その手紙には、自分は実は洗礼を受けていること、しかし友だちがいるために、洗礼を受けているということを明らかにすることができなかったこと、その後何か胸が痛むような気がして、こうして打ち明けるに至ったこと、そんなことが書いてあったというのです。
 
放送では、そのことからニコデモの話題に流れていきましたので、この学生に対して牧師がどう対処したのか、は話されませんでした。また、それはプライベートにも関わるでしょうから、明かさなかったとも思われます。
 
この話を聞いて、どう思われるでしょうか。私は、この学生の気持ちを思うと切なくなり、また、教会はいったいどうすればよいのか、深刻だと考えました。
 
なにもここで、聖餐の意義や解釈をとやかく言うつもりもなく、また、オープン聖餐やフリー聖餐の是非を問題にするようなことをするつもりはありません。この学生を教会はどう助けるのか、あるいは、この学生に何をしてきたか、という実践的なことだけを共に考えて戴きたいだけです。
 
友だちに対して、自分が実は洗礼を受けている、ということを打ち明けるのは、そんなに簡単なことではない場合がありますし、言えない状況だって考えられます。クリスチャンは証しをしなきゃ、などと一律に告げるのは、残念ながらファリサイ派の一員ではないかと私は思います。もちろんそれができるならとても素晴らしいことです。が、そうできない場合もあると考えます。誰にでもそうすべきだと押しつけ、それができない人に罪の意識を負わせるようなことは、少なくとも私にはできません。
 
しかし、この学生は、友だちとの関係の中で生活しており、いわばカミングアウトするということは、これまでの友だちとの関係を一度清算することになるほどに、大きなことでした。たぶん友だち関係でしかないと自分のことを考えている異性の友だちに、いきなり結婚しようと告白ができるかどうか考えると、このカミングアウトがとてつもなく勇気がいるということが分かるでしょう。これまでの関係が全部壊れるかもしれないリスク、相手の心に踏み込んでしまうような衝撃を与える告白となるからです。だから、友だちの前で杯を取ることができなかったというこの学生の気持ちは、ほんとうにその通りだと共感します。
 
この学生は、友だちとの関係においてはそうせざるをえませんでしたが、その後ひとりに戻り、自分と神との関係を意識するかあるいはその中に置かれたことで、自分が告白できなかったことに痛みを覚えたのです。それで黙っておれず、密かにその牧師に相談の手紙を送った、ということなのではないでしょうか。
 
私の子の場合、日曜日にマンションで出会った人に、どこに行くのときかれたら、大きな声で教会ですと答えるような、恵まれたタイプです。友だちに、日曜日は教会行ってるんだ、と平然と言い、そのうち何人かの友だちを実際に教会に連れてくることもしました。私が車に乗せて連れて行くようなことも多く、皆素直でおとなしい子たちでしたが、音楽が好きだという子が多く、教会での息子の音楽奉仕が大きな動機になっているようにも見えました。その後保護者会などで私が学校に行ったとき、その子たちの母親たちから、わざわざ挨拶されることもありました。そのとき、そのお子さんについて、教会が楽しかった、って喜んでいました、と異口同音に聞くのでした。キリスト教会という、ちょっと不安かもしれない宗教施設に、自分の子が行って、楽しかったと言っていました、そのように口にしたこの母親たちの胸には、何が残るでしょう。教会というところにどんなに親しみをもってくれるか、想像しただけでうれしくなります。息子のしていることは、偉大なことだと感心します。
 
でも、こうしたケースは稀でしょう。家族の中で自分だけが教会に行っている、あるいは親に内緒で洗礼を受けた、家族に反対されている、いろいろな事情の中で、戦いながら教会に来ている若者も、いないとは限りません。そんな中で、自分が信仰をもっている、自分はイエスと向き合って生きている、助けられている、そんな思いを、簡単には周りに知られたくない、という場合もあるかもしれません。教会に勇気を出して来てみた、しかし自分が信仰をもっていることが知られるとまずい、そんなこともあるのではないでしょうか。たとえば、家族が他宗教に篤く、その子が教会に来ていた、実は他の教会で密かに洗礼を受けていてここに引っ越してきていた、だから聖餐式があったが、杯をとった、それを周りの信徒が見ていた、あああの子は洗礼を受けているのだ、と分かってしまう、それで近所のあの子が実は洗礼を受けていると知り、それが誰かと話していることが伝わって、その子の親に知られた、それでその親は……などというのは、ありえない話だと言ってしまえるでしょうか。
 
このような聖餐式では、洗礼を受けているということを表明してしまうことになりますが、それがその人にとって危機を招くことが、いまの世の中ではありうるのです。大昔は、そもそも教会のような共同体に出入りするだけで命を張っていたこともあったとすると、そこで聖餐があった場合も、当然そこでは聖餐の姿を見られたらまずいというケースは起こりません。そもそもそこにいるだけでいわばまずいのですから。聖書の文書は、そういう時代の中で書かれました。だから、聖餐は感謝なことだ、信仰の証しだというような気持ちで描かれていて当然でしょう。しかし時代状況はいつまでもそのままではありませんでした。だのに、その状況で書かれた聖餐についての聖書の文面を教義化して、いわば律法としてしまうならば、その通りにできないようなケースが現れたときの対処として、その人を追い詰めるようなケースが生じてしまう可能性があると言わざるをえません。だから、それでもなお聖書の聖餐の文面を根拠に、なぜ証しできないのだ、と非難するような声が、ファリサイ派の考えと同じだとさきほど申し上げたのです。
 
聖餐は感謝なことです。信仰の中での恵みです。キリストを味わうことにもなりましょうし、考え方によってはキリストをまさに食べているという捉え方もあるでしょう。その聖餐を受けるために罪を告悔するというような立場もありますし、表向きラフなように見える聖餐式でも、厳しく自分と神との関係を洗い直すかのようにして、いわば自らできる範囲で身を清めるというような思いで、貴重な聖餐の機会を、神の前に出て神の恵みを受ける厳粛なものだとする姿勢をもつ人が、あなたの教会に、いるかもしれません……そんな人、いてはいけませんか。
 
しかし、聖餐はこうしてお話ししてきたように、自分の立場を周りに知らせる行為となっているのが現代の教会です。現に聖餐式のとき、初めて教会に来たあの人が杯を取るのかどうか、気になって目を遣った、ということはありませんか。そして、あああの人は、と認識した経験は、ありませんか。私はあります。つまり教会堂には、大昔と違って、信じる人も信じない人もいるわけですから、聖餐式が、洗礼を受けているのかいないのかを、不特定多数の人の前で明らかにする場となっている、という点を明らかにしておきたいのです。
 
これは、絵踏みのような事態になっていないでしょうか。そんなものとは違う、と不謹慎と呼ばれても仕方がありませんが、構図は絵踏みに違いありません。だからこそ、あの学生は杯を取ることができなかったし、そのことが胸の痛みとなったのではないかと想像します。聖餐ですら、現代では、絵踏みになりうるなどということは、言ってはいけないことなのでしょうか。
 
「強い」教会員であれば何の痛みも感じず、あたりまえのことのように思えること、時にはクリスチャンなんだから当然でしょと思いたくなるようなことの中に、「弱い」信仰者あるいは求道者が置かれた苦しみがあることを、私たちはどれだけ想定するだけの想像力を持ち合わせているでしょうか。そしてこれは、パウロがコリント教会へ送った手紙の中にもちゃんと指摘されていることであるとするならば、私たちはあまりにも、聖書を過去のものとしか読んでいないかを反省させられます。聖書を自分から突き放して、ただの昔話であるとか、研究対象であるとかしているばかりで、自分がまさにコリント教会の過ちをしている張本人であるなどとは気づかないのです。それどころか、イエスがどうしてそこまでと思えるほどに執拗に非難したファリサイ派と、まさに自分が同じことをしているのだということに、気づこうともしないのです。
 
そして、聖餐の杯やパンを配膳しながら、教会に来た人に向けて、さあ、この絵を踏めるか、と迫るようなことさえ、善良なことをしているつもりで、突きつけているようなことがあるのだ、という想像力を、私たちは失っているかもしれない。主イエスの眼差しはしかし、そのパースペクティブを間違いなく捉えていた、とも思うのです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります