会堂と巻物

2019年1月13日

ルカによる福音書の4章には、イエスがナザレで「いつものとおり」会堂に入ったという表現があります。なかなか味わい深いものです。私たちも「いつものとおり」会堂に入っていくのです。しかし今回はまず「会堂」に注目します。この「会堂」はまさに「シナゴーグ」です。聞いたことのある人もいるでしょう。ユダヤ人の集まる、いわば教会です。もちろんここでイエスが座っていたり、突然そこにいた人に説教を任せたり、私たちの礼拝とは違うなあ、という点はたくさんありますが、それでも、ざっくり見て、このシナゴーグでの礼拝の形式が、基本的にいまのキリスト教の礼拝の形式であると言われています。つまり、祈りや賛美、説教といったものが行われていたのです。
 
ギリシア語ではこの語は本来なにげない「集まる所」でありましたが、ユダヤ人たちにとっては切実な存在でした。あのバビロン捕囚でエルサレム神殿は破壊されました。後に小さな形で再建されます(第二神殿)が、ユダヤ人たちは民族のシンボルを失い呆然としていました。その地に残った人々もそうですが、引き連れられて異国に行った人々はなおさら、その信仰を守るためにどうすればよいか途方に暮れたことでしょう。そこで、エルサレム神殿ではなくとも、仲間で神を共に礼拝するための場所をつくりだし、安息日に集まってそこで礼拝を捧げることにしました。エルサレムの方を向いた建物で、律法の巻物(トーラー)を納める箱を起き、神殿を真似るような形をとりました。いま、紀元前3世紀のシナゴーグの遺跡が見出されています。その後、ローマ帝国の各地にシナゴーグが建てられて、散らされたユダヤ人たちがそれぞれの地で神を礼拝する場所を得たと言われています。
 
さてこの記事には、当時の礼拝の様子を想像させるに相応しい記述が幾つかあります。
 
聖書はまず朗読するべきものです。いまでも、礼拝説教で開かれる聖書については、司会者でも説教者でもなく、それだけの役割を果たす朗読者という人を立てる教会があります。ただそれだけと思うかもしれませんが、この朗読こそが礼拝の中心であるという考え方もあるのです。なにしろ、それは神の言葉だと信じている人が集まる礼拝です。たとえば説教は説教者の考えや解釈を述べてもよいですが、朗読する聖書はまさに聖書そのものです。これを神の言葉だと信じるから信徒なのです。最も大切なものだと見て悪いはずがありません。また、聖書を一人ひとりが所有するような環境でないわけですし、そもそも庶民は文字が読めませんから、聖書の言葉、神の言葉は、元来「聞く」ものでした。読むものではなく、聞くもの。だから、礼拝で開かれる聖書の言葉は、自分で読み解くのでなく、自分の外から与えられるもの、外から放たれ受け容れるべきものとして、聞くのが本来的であるとも言えます。西欧諸国の中には、自分の聖書を教会に持参せず、朗読のときには起立してただ朗読される聖書の言葉を聞くというありかたをしているところも多いといいます。
 
しかしまた、知恵ある者に説き明かしをしてもらうのも通例でした。そのために律法学者なるもののもいるわけです。イエスのように、ふと現れた人に突然聖書が与えられて話を頼むということもあったようです。その聖書というのは、もちろん本ではありません。紙もありません。羊皮紙に書いて巻いた巻物であるのが普通でした。古い聖書もそのように巻かれたものとして見出されることがありますし、あるいは中には紙のように羊皮紙をていねいに重ねた形で保管するということもありました。もちろん章や節の数字はもっとずっと後の話ですから、「モーセの柴の箇所」などというように、内容を見出しにできる性質のものでした。しかし学者なり教育を受けた者なりは、聖書については多くのを暗記し、またその解釈を学んでいましたから、どこから頼まれても話ができたと思われます。いまでも牧師の中には、牧師たるものは、いつどこで聖書を渡されてもひととおりの話ができる心構えが出来ていなければならない、と言う人もいます。
 
朗読が終わると巻物を巻いて、会堂管理者か誰かに返します。この安息日に利用する会堂を管理する立場の人が、会堂管理者といって、福音書や言行録に登場します。必ずしも威張った立場ではなさそうで、そのうちイエスに信仰を示したり従ったりという人もいたようでした。イエスは、朗読の後に、奨励を始めたようです。この話は、現代で言うならば説教というところでしょうか。この説教たるもの、いまとはまた雰囲気が違うであろうにしろ、同様のものがあったようで、パウロの書簡などを見ても、パウロの話という言い方や、パウロが夜中に話をしていたなどと、聖書の説き明をしていた様子が窺えます。
 
今回、ここが故郷であったということで、トラブルになっていました。その意味や背景については、単純に片づけられないこともありましょうから、いろいろ考えていきましょう。ただ、ここで「その言葉には権威があった」(4:32)という点には注目しておきたいものです。神を背景にもつ権威というものがそこにあったわけです。そして故郷ではその権威が通用しなかったということです。さあ、私たちは、礼拝の説教の中に権威を感じているでしょうか。その説教は、神の言葉を語っているでしょうか。先週もお話ししたように、そこには神の言葉が出来事となっていたでしょうか。また、聞く私たちが、出来事としていく、あるいは私たちの中で変化が起こるというふうであったでしょうか。もし語られた説教や聖書の言葉が何も自分の中に残らず、また何も自分を変えずに通りすぎたとすれば、私たちもまた、この故郷ナザレの人々と、同じ仕打ちをイエスに対してなしているに過ぎないのかもしれません。神を礼拝するということの基本を、この礼拝の実況の記事から味わい、日曜日にまさにその礼拝をしているのだという意識で臨むようにしたいものだと思うのです。



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