2019年1月12日

「イエス・キリストを信じる信仰」というように従来訳していた新約聖書の語を、2018年末に発売を始めた新しい聖書協会共同訳聖書では、「イエス・キリストの真実」としたのは、日本語訳としては画期的なものであったように思われます。
 
これは、ギリシア語原文を知ると理解できます。直訳すると、「イエス・キリストの信」というような語が並んでいるのです。もちろん、英語と同様に前置詞でいうなら「of」のような効果があるのですが、日本語の「の」と同じようなものだと考えても差し支えないように思われます。そして「信仰」と通常訳している語は、本来もっと広く「信頼」とも言えるような概念を表す言葉なのです。

そして日本語においても「の」は極めて曖昧なものです。おもなものだけ例示しますが、「が」と「を」との使い分けを、私たちは無意識にしています。「私の本」と言うだけでも、私「が」所有する本であるのか、私「が」書いた本であるのか、私「を」描いた本であるのか、文脈によりもつ意味が違ってきます。母語において私たちは、自然とこれを区別しているので、つくづく言語というのは大したものだと思います。「劇の練習」なら劇「を」練習するのだし、「心の動き」なら心「が」動くことだし、一義的になるものももちろんありますし、当然のことですが、先に触れたように所有の意味が一番強いと言えるかもしれません。
 
そこでギリシア語で並ぶ「イエス・キリストの信」という言葉も曖昧なものですが、このような日本語だと何を言っているのか分からないというので、これまでの日本語訳聖書は、はっきりと意味が伝わる訳を心がけてきました。そこで「信じる」という、原語にはない言葉を補うことまでして、よく「イエス・キリストを信じる信仰」と訳していたのです。このような翻訳においては、原語にない言葉を付け足すようなこともよくあることなのです。しかしこれでは、「を」の意味だけに限定している訳し方になります。そして多くの人は、その意味で理解するのに違和感もなく読んできていたのでした。
 
けれども、そのような意味ではない読み方があるのだと考える人もいました。「を」ではなく「が」という考え方もあるし、パウロがそのように言うと、また違った風景が見えてきて、そして矛盾するようなこともない、と。つまり、「イエス・キリストが信頼していること」と読むのです。イエス・キリストが私たちのことを信頼してくださっている! このことをまた説明し始めると長くかかりますから、いまは省略します。そして、聖書協会共同訳が「信」を「真実」としたことも、この語のもつ意味に「真実」とか「信実」とか呼ぶとよさそうな意味があることも確かであることなども、挙げておこうかと思います。なお、中には「イエス・キリストの信」のまま訳出しておいて、それをどう受け取るかは読者に委ねるのが訳者としては適切なのだと主張する人もいます。
 
さて、ようやく本題なのですが、ここまで「の」に注目して近代人が「イエス・キリストの信」の解釈を議論してきたことを振り返ってきました。でも私たちの言葉の「の」だけで論じてよいのかどうか考えていた私は、ふと思いつくことがありました。もっと違う角度で捉えてみてはどうか、と。
 
「信」が「真実」でも「信頼」でもあるというニュアンスを中心に置くことによって、こう考えました。私たちは「信頼を得る」という表現を使います。普通これは、自分が他の人々から信頼してもらえるようになることを意味しています。日本語としてはそうとしか取れないかもしれません。けれども、ひねくれた言い方かもしれませんが、自分が誰かを信頼するようになることができた、という感覚を伝えることも可能であると思ったのです。繰り返しますが、そんな日本語はない、と言われればその通りですが、「得る」が可能の意味を示しうるとき、この「信頼を得る」を「信頼・得る」という単語に分解したとしたなら、自分が何かを、たとえば他人を、信頼することができるようになったことを意味するかもしれない、と。
 
このとき、それはどちらか一方だけが成立していて、他は成立していないのでしょうか。私はそうは思わない。他者に信頼されるとき、その他者を私も信頼している。私が他者を信頼できるときは、他者からの信頼を既に知っているか、または期待している。双方向的な関係があってこその信頼というものではないだろうか、と思うのです。
 
イエス・キリストの信という言葉が、どちらか一方だけの方向しかもたないかのような理解は、私たちの通常の感覚とは異なるのではないでしょうか。パウロがこの表現を使ったときも、自然にきっと、双方向的な中で使ったのではないでしょうか。そのマルチ性があってこその「信頼」という概念ではないだろうか、と思うのです。
 
だからまた、近代的な意味での「信頼」概念でもないものに包まれているはずだと捉えたいと思います。ちょうど「契約」という聖書の語が、現代的な社会契約概念に制限されるものではなく、もっと情のあつい結びつきで捉えられるべきものであろうと推察するように、「信」もいまの私たちのイメージするものとは違う世界を指しているのではないだろうか、そしていまの言葉の概念だけで議論すること自体が、何か戦いのための戦いに過ぎず、聖書から聞くこととはかけ離れた行為であるかもしれない、そんなことを私は考えていたのです。



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