アルファベットによる詩

2019年1月6日

礼拝説教でも少し説明がありました。平尾ではもっと詳しく語られたかと思います。詩篇には、「アルファベット詩篇」と言われるものが9つ(9篇、10篇、25篇、34篇、37篇、111篇、112篇、119篇、145篇)あります。ヘブル語のアーレフから始まってターヴまでの22文字を頭とする単語によって、各連を始めようというきわめて技巧的な詩篇です。
 
このように詩篇の中には、アクロスティック(acrostic)と呼ばれる、どこかの言葉をつなぐと別の意味が現れるというものがありますが、119編はその代表です。これは最大の詩です。176節ある長大で壮大な作品です。もし聖書を一日一章読むとすれば、ここにあたったときには大変です。そこで通読表などでは、しばしば119編は数日に分けて読まれることになります。
 
この119編は、それぞれの段落の語頭の文字が、アレフ、ベス、ギメル・・・とヘブル語のアルファベットの順番になっています。少しギリシア語のアルファベットに近いような出だしですが、ギリシア語からラテン語、ドイツ語や英語へと繋がる筋とは違う系の言語なので、私たちの感覚とは異なる並び方をしているように見えます。ユダヤ人の子どもは、この詩篇を丸ごと覚えるそうですが、段落の語頭がアルファベットの順になっているので、その分覚えやすいのです。
 
先にも紹介しましたが、ヘブル語のアルファベットは、22文字から成っており、119編は2行で1節を形成する日本語の構成から8節で一連を成しています。その連がそれぞれヘブル語のアルファベットの文字で始まる言葉から展開していき、全部で22連ある、という形式になっています。
 
日本語でも、伊勢物語に「かきつばた」で始まる和歌があります。
  唐衣きつゝ馴にしつましあれば
    はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
英語ならばしばしば脚韻を踏むというのは、その言語的な性格に基づくものでありましょうが、日本語は文末が制限されがちになることから、頭韻のほうがとりやすいと思われます。ヘブル語も頭韻のほうが揃えやすいのでしょう。
 
119編の技巧は、それだけに留まりません。殆どすべての節には、神の言葉を表す語が含まれています。神の言葉、それはたとえば、おきて・あかし・おしえ・戒め・定め・さとし・ことば・道・仰せ・さばき、こうしたもののことです。たんなる言語的な言葉を指しているのではなく、広く神の言葉が形を伴い現れてくる様子がよく分かります。
 
そうです。神の言葉は、ただの言葉ではありません。「光あれ」という言葉がそのまま「光があった」というように存在になる、そこがポイントです。これは古くから哲学的にも大きなテーマとなっていた観点で、真理なるものは、言葉と現実との一致というのが近年に至るまでほぼその定義でした。神においては、それが成立するから、神は真理であるのです。しかし人はどうでしょうか。口先で言ったことが事実になるという保証は何もありません。むしろ現実にないことを勝手に言い放つことが多く、それはまさに偽りであり、また有限な人間の精一杯の能力がその程度である、ということになります。
 
だからまた、礼拝の説教というものには特別な理解が伴います。説教は言葉で発されます。それを聞いて眠るような人もいるし、何も心に入ってこないままに耳を通りすぎていくということも残念ながらありうるのですが、説教は特別な言葉です。何よりもそれは神の言葉です。牧師が神に成り代わって言うのだ、と安易に言うのは控えたいのですが、牧師は、神の言葉を語っているという意識あるいは祈りなしには、とても語れるものではありません。それは人の心を新しくします。人をつくりかえる力をもっています。そういうことが現にあるわけですから、そこに神が働き、また神の言葉が語られていると言ってよいはずになります。そのような、奇跡的な出来事が起こりうるものであるはずです。
 
このように、説教は神の言葉の出来事である、という考え方が広く認められるようになってきました。神の言葉が、ただのコトバではなく、人の中に新しい出来事を起こす。神の言葉が出来事となる。それは確かなことなのですが、あとは、聞く私たち一人ひとりが、自分の中にそれが現実となるかどうか、その体験により、私たちは生かされるということになるでしょう。神の言葉が命となるのです。
 
詩には技巧がつきものです。もちろん日本の詩にもいろいろな技法があります。ヘブライ文化における詩にもそれはあり、時にその技巧を優先するために、意味が犠牲になったり、文法的に破格なものが現れたりすることがあります。気をつけておきたいのは、それをさらに日本語に訳すというのは至難の業であって、意味を訳せば技巧がちっとも現れず、技巧を伝えようとすれば意味通りに訳せないという事態が起こります。それは賛美歌の訳にも言えることですが、いずれにしても韻文を翻訳するというのは大変です。
 
そればかりでなく、ヘブル語は、英語やギリシア語の仲間とは違う言語体系をもっているので、翻訳が独特のものとなりますから、実のところこの詩編という箇所は、日本語の聖書はてんでばらばらな訳になっていることが少なくありません。新約聖書であれば、解釈の違いなどから多少の相違はあるものの、それほどどの訳も違和感なく読めますが、詩編はだめです。本当にこれは同じ詩を訳したのかと思われるほど、全然違う感じに訳されているものもあり得ます。それで、一つの訳だけからあまりに先走った解釈を決めつけてしまう前に、できるだけ多くの日本語の訳を比較して、それらを比較する中で、意味ができるだけ偏らないように読むことができたら、聖書のもつ豊かなメッセージが、思い込みに左右されず味わえる可能性が高くなるのではないか、と思われます。
 
なお、メッセージでは「幸い」に次第に焦点が移り、私たちの眼差しが、聖書の告げる「幸い」に向くように流れていきましたが、たまたま今朝開いた加藤常昭著『み言葉の放つ光に生かされ 一日一章』の1月6日の箇所で、祝福の黙想が与えられていました。それは、創世記が創造の祝福に始まり、マタイ5章の七つの祝福の言葉を経た後、聖書の最後の黙示録で、七つの祝福があるというものでした。黙示録1:3,14:13,16:15,19:9,20:6,22:7,22:14 それぞれに、「〜は幸いである」と記されています。開いてみては如何でしょう。



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