新年礼拝・元旦礼拝

2019年1月6日

今日が2019年の初めての主日である故の、新年礼拝。尤も、私にとっては、新年というのは究めて人為的な区切りだと思うし、それほど大きな価値を置いてはいません。もちろん昔はそうではなく、ひどく特別な時だという認識がありましたが、だんだんそうは思わなくなってきました。とくに、信仰が与えられて、年神という考えが背後にあることを知ったら、大掃除にしろ、そのためのものだという文化に染まらないようにしたいとさえ思うようになりました。
 
新年に主の前に出る、という旧約聖書の律法があるので、新年礼拝なるものを拒否するつもりはありません。ユダヤ暦の正月とは違うぞ、などという理屈を持ち出すような気も起こりません。新しい気持ちになることは、一年中いつでも同じようなものだし、これが人生最後の礼拝になるかもしれないという覚悟もまた、一年中いつでも同じですから、この日だけ、というつもりもないのですが、教会として新たな目標を掲げるなどの区切りをクリスマス以降にもつことは、悪くないものだと思います。
 
では元旦礼拝はどうでしょうか。これも、律法の中にあるような、正月の特別規定と思えば、聖書に沿ったものだとも言えるでしょうし、寺社へ流れる人の波に背を向けるという意味で証を立てるような動きがあることも、それはそれでよいのではないかと思います。
 
ただ、元日が主日でない場合に、どこまでそこに寄り添うかは、その時々であるとも言えるでしょう。詳細は説明しませんが、車でないと行動しにくい遠方にいる中で、駐車できないかもしれないという問題は切実で、場合によっては主日の礼拝ですら、この駐車問題で遠慮する場合も考えられます。どうしても車でないとという事情がある者がいることについて、それほど重みを感じられない方がいらっしゃらないとも限らない実情ですが、もちろんそれを責めるつもりはありません。
 
とくに今年の正月は、個人的に、喪中葉書を各地へ送るなどの事情がありました。元旦礼拝では教会でも「おめでとうございます」が飛び交うのが当たり前という中で、これは耐えられないと思いました。いや、最初からその事情を胸に、その言葉をかけられないままに、今年もよろしくお願いします、と言ってくださる方も必ずいらっしゃることは分かっています。しかし、そうした人ばかりでないのも確かです。母が亡くなったときにも、「お父さまでしたっけ」と声をかけられたことは、少々ショックでした。週報には毎週祈ってくださいと印刷されていたことについて、何も皆に祈れなどと言うつもりもないし、祈る課題が次々と出されてくる中で、実際何も気を払っていなかったのだということは、教会とて珍しいことではないでしょう。だから、私のこともつねに覚えている方ばかりではないのも仕方のないことで、正月に顔を合わせればあちこちから「おめでとう」が押し寄せてくることは、残念ながら避けられないと見たのです。
 
これは、私のほうが、信頼していないということでもありますから、あまりよい感情ではないことも承知の上です。けれども、最初から名前を間違えられたり、その間違いを訂正してくれないかとお願いすると、信じがたい反応を返された経験もありました。そうした間違いを指摘しても、訂正しますなどと口では答えが返ってくるのですが、殆ど覚えられず相変わらずというのが常態であるその体質からして、凡そ信頼できない状況であるというのも残念ながら事実なのです。私が職場でそのようなことをすると仕事がなくなりますのに、仕事で信用されなくなるような、約束事の忘却ということが、教会という場では常態であるというのは、ちょっと情けないことではあると思っています。もしかすると、「ゆるし」というのがあるべきだという中で、語る側が、自分をも許せとハラスメントをかけている可能性はないでしょうか。少なくともそのような甘えが蔓延しているのではないか、とも勘ぐられます。
 
教会の中にいる人間は、世間に比べれば比較的信頼ができるというのは分かっているのですが、だからと言って全幅の信頼を寄せるべきだというのもまた、無理な話です。そこに勝手に理想を思い描いてそうでないからと不満タラタラというのも得策ではないでしょう。人を見に教会に来るのではなく、自分もまた不完全な者であるという前提の中で、主の前に出るという気持ちや、愛の学びをする学校のような気持ちでいる、というのは適切な表現ではないかもしれませんが、事実上そうした環境にあることは、やはりひとつの現実ではあるわけです。
 
できるなら、信頼される者でありたい、とは願います。だからできるだけ、そうなれるよう努めてはいるつもりです。もちろん完全にはできないし、ポカもたくさんあります。後で、しまった、思いやりがなかった、と悔しく思う時もあれば、それに気づいてさえいないままに傷つけているだろうという想定をするよりほかないという覚悟もしています。多分に、そうしたケースのほうが多いのだろう、と。
 
このような信頼は、信仰とパラレルであろうと私は捉えています。どちらの語も邦訳でなければ同じである場合があり、特に新約聖書のギリシア語では区別がないのが普通です。新しい訳の聖書でもそのあたり思い切った措置がとられており、従来の解釈を訳文からすれば変えざるをえないという様子も見られます。
 
信頼できないという自分の姿を喜ぶことはできませんが、しかし人を信頼できずとも、信頼できる方がいるという構図が、聖書の本質的な部分でもあるという理解は可能だと捉えます。自分の姿に呆れつつも、自分のあり方を認めながら、どちらの方面にも固執するわけでもなく、無理しないでそこにいさせてもらえたら、といつも思っています。
 
だから、教会全体のために何かをするというようなコミットはできません。そんなわがままな形の信仰をも認めるという点だけは、この教会の掲げる中で信頼できるところだと理解していることになります。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります